いつくしみの心
いつくしみの特別聖年に当たり、今日、神のいつくしみの主日を祝うことは、たいへん重要なことだと思います。ヨハネ・パウロ2世教皇が定めたこの日ですが、今日は復活から第2週日、8日目ということが大事なのです。復活節の間で、復活の続唱を主日に歌うのは、復活祭と今日だけです。
そして、ミサの最後の派遣の祝福の後、アレルヤと言うのも復活祭と今日だけです。なぜ、8日目が大事か。神様は7日間かけてこの世を創りました。復活というのは、8日目の出来事です。新しい1週間の始まり、新しい時の始まりなのです。神様は、イエス様の復活によって、更にこの世の中を創り続けている。創造の業をずっと続けておられる。
新しい創造の時、救いの時、8日目はとても大事です。私達は毎週日曜日に集まってミサを捧げていますが、それは8日目をお祝いしているのです。その8日目にイエス様は弟子たちにまた現れ、私達に救いの道を示してくださいます。私達がどんなに苦しんでも、恐れても、神様はそこから解放し、私達を救いへと新しい時代へと導いておられるということを、今日、心に留めたいと思います。
復活したイエス様の最初の言葉は、福音にあるとおり「あなたがたに平和があるように」でした。いつも私達が言っている言葉です。平和の挨拶です。私達は「主の平和」と言い、ミサの聖体拝領の前に行います。聖体拝領の前になぜするのか、これも、聖書の言葉通りだと思います。
山上の説教の中で、イエス様は言いました。「捧げものを捧げる時は、自分に反感を持っている者がいたら、先ず仲直りをしてから捧げものを捧げなさい。」私達が聖体拝領をするという事は、イエス様、神様との近しい関係を示すものになります。これは信者しか戴けません。洗礼を受けていないと戴けないもの。ご聖体拝領する人は、神様と特別な関係にある人。旧約の時代では、捧げものを捧げることが神様と親しい関係を示すものだったわけです。
神様と親しい関わりを示すはずなのに、それなのになぜ、イエス様はその前に仲直りをしなさいと言ったのか?それは、神様が創られたものといい関係を結んでおかないと、神様といい関係を結べないわけです。全てのものは神様が創られたものです。それを自分は気に入らないからといったのでは、神様との親しい関係を無駄にしたことになる。
私たちは神様との親しい関係を世に示すのであれば、やはりそれにふさわしく行動しなければいけないと思います。そのために、私達は聖体拝領の前に平和の挨拶を交わすのです。
イエス様は十字架の上でご自身を捧げ、先ず神様と私達の和解を実現して下さいました。それで私達は聖体拝領が出来るのです。先ほど言ったように、イエス様は愛を持って私達に赦しを与えてくださったのに、私達がその気持ちを持たないで聖体拝領をしてしまったら、聖体拝領が無駄になってしまいます。
以前2人の神父が一緒にミサを捧げました。一人の神父がいい加減なことをしたのです。ミサ後、香部屋に入ってもう一人の神父が「お前何やってんだ」と怒りました。そしたらもう一人の神父は「ミサは神様のいつくしみの場だから別にいいじゃないか」と言い返したのです。
確かに、2人の神父様の言い分はそれなりのものだと思いますが、私はどちらもダメだと思います。二人は平和の挨拶をしていないからです。平和の挨拶を破棄しているから、赦し合う心を持っていないからいけないと思います。確かに間違いなく愛をもってミサを捧げることは大事です。でも、隣にいる人を受け入れていないのでは、意味がないと思います。
神様は正しいミサを行うことを望んでいるわけでもありません。間違いを起こしたら、もちろん神父さんに怒られるのじゃないかとちょっと不安になったりするところもあります。私も、侍者をやって失敗した時、帰りの車の中で父によく怒られたりしましたが、神様はそんなことを望んでいません。
神父は何のためにいるのかというと、それは信徒にいつくしみと愛の心を示すためです。神父様に怒られても地獄に行きませんから皆さん心配しないでください。ただ、神様の愛といつくしみを持って互いに平和の挨拶を交わさないのであれば、ちょっと天国に行ける保証は出来ないと思います。
私達を救いに導くもの、それは神の愛であり、いつくしみです。私達が本当に力づけられるのは、本当にここに集まって良かったなと思えるのは、神様がいつくしみ深い方だからです。私達が望んでやまない平和も、私達一人一人の心の中に、全員の心の中にこのいつくしみの心が強まらなければ、決して実現するものではありません。
教会はそれを実現する場でもあり、ぜひ、この千葉の教会が愛といつくしみに満ちた共同体となるよう、また常に私達が平和の挨拶を交わし続けながら共に歩んでいくことができるように、今日の御ミサを捧げたいと思います。そして、これから皆さんと共に歩んでいきたいと思います。