主の復活おめでとうございます
主の復活おめでとうございます。世界各地で自然災害や戦争に見舞われる中で迎える復活祭ではありますが、何よりもすべてを越える神のわざに希望を寄せて慶びを申し上げます。この喜びこそ、困難を乗り越え、救いである神の国の建設していく力の源です。だからこそ主の復活を遠慮なく心から喜びましょう。そこからわたしたちの信仰生活が始まるのです。
日本人は他人の不幸などに気を遣う国民性があります。特に葬儀の時の言葉使いなど、それに関わるすべてのことに気を遣います。もちろん悲しむ遺族に失礼のないようにという配慮であるとは思いますが、マナーと言うよりは自身が恥をかかないために行っているようにも思えます。わたしも葬儀だけではなく、病床訪問などでも自然と緊張感が高まり、真冬でもびっしょり汗をかくくらいです。それでもカトリックの葬儀はそれほど厳しいマナーもなく、通常は決して使われることのない「喜び」という言葉さえ祈りの中に出てくるくらいです。すでに以前のことではありますが、天使祝詞が「めでたし聖寵満ちみてるマリア」で始まる文語から「恵みあふれる聖マリア」という口語に変わったとき、「めでたし」という文言が省かれたのは、葬儀などの時に配慮してのことであると言っていた方がいました。結局批判が多く、現在の「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方」で落ち着いたとのことです。どんな時であろうと、心を込めた祈りであれば失礼に当たることはないはずですし、心を込めることがカトリック儀式の唯一のマナーであると思っています。
現在、自然災害や戦争などで多くの人々が困難な状況に置かれており、中には家族や近しい人を失った悲しみに暮れている方々もいることでしょう。そのような中で教会は何の配慮もなしに復活祭をお祝いするわけではありません。もちろんうんざりするような現実の不安を少しでも忘れて楽しむためのものでもありません。復活は何よりもわたしたち人間を力づけ励ますものなのです。どんな困難でも乗り越えさせる父なる神さまの愛に満ちたわざなのです。それがイエスさまによってもたらされたことを、心を込めて祝い、喜ぶのです。どんなことであろうとこのままでは終わりません。希望を胸に再び立ち上がって歩みを進める人の上には、必ず神の祝福と恵み、そしてそれふさわしい報いが与えられるのです。わたしたちがのべ伝え、信じて生きている福音はそこにあります。 「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙二5章12〜18節)。