主の降誕おめでとうございます。
主の降誕おめでとうございます。今年は千葉寺教会と西千葉教会の統合に先立ち、待降節から主日のミサをともに行うことなどもあり、慌ただしくこのクリスマスを迎えたように感じているのは、わたしだけではないと思います。それでも最初のクリスマス、本当にイエスさまがお生まれになったときも、まさしく慌ただしい状況でした。ローマ帝国の圧力で人口調査をしなければならなくなったユダヤ人たちは各々自分の出身地へと向かいます。身重のマリアさまをかかえながら、ナザレからは遠く離れたベトレヘムに向かい、人のごった返した町の中で泊まるところも見つけられずにいたヨセフさまも、その慌ただしい状況の中で困惑していたに違いありません。そのような中で神のひとり子はお生まれになりました。
わたしたちの日常生活は常に慌ただしく、また煩雑です。誰もがゆったりと優雅に過ごしたいと願っていることだと思いますし、またそれを理想として目指し努力しているはずなのに、現実は厳しいものです。日々変化する時代とその流れを止めることができないからなのでしょうか。一つ片付けたと思ったら、また別の問題が降りかかるものです。理想とはほど遠い日常生活の中で、仕方ないとあきらめて、束の間の休息をとり、またこの慌ただしさの中に身を任せるしかありません。
それでも希望はあります。それは慌ただしさの中で不意に訪れる喜びです。思ってもみない出会いであったり、自分の願いが叶えられたときであったり、また積み重ねてきた努力が認められ報われたときに感じるものです。そのような喜びが希望となり、様々な困難に立ち向かうための力となっていきます。喜びは小さくても、わたしたちに大きな力を与えます。そのような喜びを与えるため、神さまはそのひとり子をわたしたちに遣わされたのです。
クリスマスとはキリストのミサ、すなわち救い主の派遣を意味します。イエスさまはただこの世に生まれただけなのではなく、慌ただしく生きるわたしたちに救いへの希望をもたらすために、神さまのもとから派遣されるのです。だから福音書が語るように、イエスさまはきらびやかで優雅な場面ではなく、慌ただしく煩雑な現実の中にお生まれになったのです。それも貧しく弱い小さな幼子の姿で。それでも幼子には生きるための希望と祝福が満ちています。クリスマスのメッセージはそこにあります。
千葉寺教会と西千葉教会の統合は、この慌ただしさの中から始まるのです。人数は増えたとはいえ、共同体としてはまだ幼子のようなものですが、これからいろいろな体験を通してさらに豊かにされていくことでしょう。イエスさまとともに歩むのであれば乏しいことはありません。幼子のイエスさまとともに、感謝と希望のうちに、新しい教会の一歩を踏み出しましょう。