主の降誕おめでとうございます
主の降誕おめでとうございます。今年のクリスマスのミサはまだ聖堂の人数制限をしておりますが、それでもカリタス館ホールを併用し、教会に来てくれた方々すべてを受け入れて行いたいと思っています。どれだけの人が来てくださるのか楽しみにしています。コロナ以前もクリスマスと復活祭くらいですが、どこの教会も人で溢れかえります。必ずと言っていいほどトラブルが発生します。それでも初めてミサに来てくれた人や久しぶりに会える人などもいて、気持ちが高ぶります。本当に楽しみにしているところです。
クリスマスはキリストとミサが合わされた言葉です。以前にもこの場(てくむ)で書いたと思いますが、キリストは「救い主」、ミサは「派遣」であり、クリスマスとは「救い主の派遣」という意味となります。ですからクリスマスはただのお誕生日ではないのです。神さまによって救い主が遣わされたのですから、救いのわざが実現した最初の日を示しているのです。バースデーではなくミサと表現していることに深みを感じます。
通常わたしたちがミサと呼ぶ典礼の正式名称は「感謝の祭儀」です。ミサは通称なのですが、これは最後に唱える派遣の言葉からきています。待降節から日本語のミサ式文が新しくなりましたが、この言葉は従来通りです。「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」の「行きましょう」という呼びかけが「ミサ」に当たります。ここではどこに行くのかはありませんが、新しく付け加えられた別の呼びかけにはこうあります。「行きましょう、日々の生活の中で主の栄光をあらわすために」。ここでは派遣先が「日々の生活」であることははっきり宣言されます。
イエスさまはベツレヘムの暗く貧しい馬小屋に派遣されたようです。わたしたちの日々の生活の場所よりも暗く貧しい場所です。しかしそこでイエスさまは神さまの栄光を見事にあらわしています。その栄光は赤ちゃんの姿に凝縮されています。赤ちゃんはただ生きているだけです。それでも嘘をつくことも手を抜くことを知らないので、全力で生きているはずです。いかに暗くて貧しくても全力で生きるところに神の栄光が輝くのです。同じようにわたしたちも日々の生活の中で、正直に手を抜かず懸命に生きることによって、神の栄光を輝かすことができるのです。またそのために神さまから派遣されているのです。そしてわたしたちのすべてが幼子と同じであったはずなのです。
幼子とともに、幼子のように、神の栄光を輝かすクリスマスのミサをささげましょう。