手を繋ぐということ

2018年4月1日

福島一基神父

御復活おめでとうございます。

父なる神さまが与えてくださったこの喜びが、すべての人に、特に困難な状況にある人々に与えられますように。キリストの復活はすべての困難を打ち砕く希望です。だからこそわたしたちも自らの十字架を、喜びとともにすすんで背負うことができるのです。またそうすることによって必ず「神の国が力にあふれて現れるのを見る」(マルコ9:1)ことができるのです。

先日、幼稚園の子どもと並んで歩いている時、イキなり人の手を握ってきました。あまりにも自然に握ってきたのでびっくりしたのと同時に、懐かしさを感じました。手をつないで歩くなんて思い出の中にそれほどありません。幼稚園や小学校のころぐらいでしょうか。こっぱずかしいので手を離そうとしたら、ぎゅっと力を入れて握られてしまい、逃げることができませんでした。もう少し大きくなると手なんか握るどころか、ちょっと隣に行くだけで「キモ!(気持ち悪いという意味らしい)」なんて言うようになるのです。それも成長の一つで喜ばしいことなのですが。

そういえば、まだ司祭になりたての頃に同伴した教会学校の遠足を思い出しました。リーダーの一人が「隣の人と手をつないで行動するように」と子どもたちに指示を出しました。確かそのときも誰かがわたしの手を握ってきたのです。気にせずに歩き始めてふと隣をみると、なんと中学生の男子リーダーだったのです。こちらから「俺は子どもじゃないぞ」と言ったら笑ってましたけど。若干キモかった思い出です。

手をつないで歩いていい基準があるのでしょうか。よく分かりません。ただ復活されたイエスさまはきっと傷ついた手で、恥ずかしがっているわたしの手を引いてどんどん神の国へと向かってくれるのではないかと勝手に想像しているところです。そういえばこの印刷物の名前は「てくむ」でしたね。西千葉教会がイエスさまと、そしてここに集うすべての人と手をつないで神の国を目指す共同体であるよう、心より願います。

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