炭火がおこしてあった
4月3日に、新しく主任司祭になられた福島神父様がここに来られ、ごミサを捧げて下さいました。 福島神父様は48歳だそうです。48歳でここに転任してきました。実は、私も48歳の時、転任しました。でも、今度の場合とちょっと状況が違います。どういうことかと言いますと、初めての転任が48歳だったのです。
私は、司祭になって、東京・中野の徳田教会に派遣されました。徳田教会は、カトリックのシスターが営む社会福祉施設、老人ホーム・乳児院・保育園・病院とかが点在している何千坪という敷地の中の一角にあり、シスターたちがたくさんいらっしゃる。
当時自炊をしていたのですが、ご飯を炊き忘れた時、窓越しで叫べばよかったのです。「シスター、おむすび2個!」。すぐ届きました。シスターたちに自分は守られている、という環境におりました。それが、実に13年も続いたのです。
初めての転任で「東京・麻布に行きなさい」と言われたのが、48歳の時。びっくりしました。麻布教会は都心の教会。近所はビル・マンションだらけ。シスターたちがどこかにいるというわけでもない。完全に一人でやらなければいけない。ということで、侘しい。それまで、シスターたちに応援してもらっていたからよかったが、初めての転任で、できるだろうか、心細く思いました。
その時です。イエスは、何か、私に言ってくれているはずだと思い、聖書を開いたのです。それが今日、復活節第3主日の御言葉、ヨハネ21章1-19です。
ペトロが、「また舟に乗って漁に行きますよ」というと、他の弟子たちも賛成する。舟に乗って湖の真ん中辺まで行くのですが、いくら漁をしても網に魚がかかりません。それで岸に戻ってこようとした時、はるかかなたの岸辺で、一人の男が立っている。イエスである。でも彼等にはイエスだとわかりません。
逆にイエスは、舟に乗っている弟子たちに言います。「子たちよ、何か食べるものはあるか」。「ありません」と答えると、イエスは云う。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば捕れるはずだ」。夜中じゅう、魚を捕ろうとしていたのに捕れなくて、むなしく岸に帰ってきた時に、それを打ち消すかのようなイエスの言葉。
でも、ペトロたちはイエスの言葉に従い、網を湖におろす。すると、引き揚げることが出来ないほど、大量の魚が網にかかる。それを見て、ペトロは、「主だ」と言いつつ、嬉しさと驚きのあまり、湖に飛び込む。
さて、弟子たちが陸に上がってみると、炭火がおこしてある。今日のポイントの言葉です。何のために、どういう状況で炭火がおこしてあったのでしょう。それは、夜中じゅう湖で働いて戻ってきた弟子たちが、きっとおなかをすかしているだろう。
復活されたイエスご自身が、弟子たちの望みに先立って、獲ってきた魚の数匹を炭火の上にあげ、彼らが食べやすいよう魚を焼いていたのです。彼らの要望を深いところで応え、仕えていた、ということです。
私は48歳の時、初転任で、不安と心配で一杯の気持ちのまま、新しい教会に行きました。しかし、その心配も不安も、ただ一箇所、今読んだ聖書の箇所の言葉で、問題は解決してしまいました。
復活したイエスが炭火で魚を焼くという、弟子たちが全く思いがけない方法で、予想だにしなかった形でイエスは準備し、ことを進めてくださっています。弟子たちの心からの望みに、イエスは見事にいつもその応えを持って、私達に与えてくださる。
「どうしようかな、これから新しい教会で」。大丈夫です。復活の主が炭火をおこして、みんなを待っていて下さいます。御言葉に導かれて務めを果たす。その日その日を一生懸命やる。その積み重ねが、やがて10年の長さになったのです。
私達も新しい神父様を迎えて、復活した主に、炭火をおこしてもらうという結果がもたらされるような日々でありますよう、皆さんと共に心からお祈りしたいと思います。