八ヶ岳の登山道にて
私たちは、人それぞれ趣味をもっている。私もいくつか趣味があって、その重要なひとつに、山登りがあった。「あった」と過去形を使ったのは、もうやめたからである。三年ほど前、足腰がよわくなり、とても疲れるので、やめてしまった。でも52歳から25年間、毎月1?2度山に行き、それがなによりのリフレッシュだった。身と心にも、よき休息の山登りだった。
25年間、たったひとりの山登りで、誰かと行くということは、ほとんどなかった。危険が隣り合わせなのが山登りの特徴だが、ひとりだから一層、事故に気をつけて登り続け、25年間無事。神さまに、とても感謝している。
八ヶ岳連峰の名を聞いた方は多いだろう。長野県と山梨県にまたがる、最高峰が3千メートルにも届く八ヶ岳連峰。その山に登ったときのことだった。下からガヤガヤ、声が聞こえてくる。そう、子どもたちが集団で登ってきたのだった。近くに来た子どもに聞いたら、みんな小学校5年生。学校の野外学級で来た、と言う。こんなに岩ごろごろ、急な危険な斜面。しかも標高が3千メートルに近い山に、なぜ子どもがこんなところに、と私は驚いた。
そして、私の第一の感想は「えらいなあ」だった。誰がえらいのか。子どもではない。保護者でもない。この登山計画を決定した先生がえらいなあ。あまりにえらいと思ったので、つい、思わず駆けよって、リーダーの先生に握手したほどだった。
なぜ先生がえらいのか。それは、教育者として、その判断と勇気である。なぜか。きっとこの登山の前に、学校で保護者たちは説明会を受けたはずだ。この子どもたちの登山について。その時にはきっと、「子どもには無理だ」「岩だらけで急勾配で、標高が高く危険だ」と、いろんな反発や疑問が親から出たはずだ。
それに対して実行する学校側の先生たちは、多少危険があっても、それ以上に危険を乗り越え、転落、転倒のリスクを背負いながらも山登りを通して得られるプラスが多い点を強調したはずだ。だからこそ、多少の危険をかえりみず、この山登りを決定したはずだ。
いまどきの親を見ていると、とかく子どもに「危ないから、行っちゃダメよ」「そこに入っちゃ、すべるわよ」。いちいち口を出すことが、愛情の表れと思っているのでは、と思う時がある。そうではない。そもそも私たちの人生は、至る所危険だらけだ。ちょっと足を踏みはずすと、へたすると奈落の底に落とされてしまうのが現実の世界でないか。
教育とは、親がいつ死んでも、子どもがひとりで生きていける判断力を養うことだ。山は確かに危険がいっぱいだ。しかしあえて、子どもたちに危険な登山を経験させることにより、ひとりで生きていくための、危険に対する対処能力、危機に対する予知能力を養っていくのが、肝要(かんよう)だ。「危険だからダメ」、それでは初めからそもそも対処能力をうばってしまっている。
その結果、子どもは、ことに出くわして初めて、とまどい、おろおろし、そしてとんでもない判断をしてしまう。そして致命傷にいたる。それが現実の世の中にしばしば、あるのではないか。
私は、あの小学生の先生たちが、危険をも予想しながらも、八ヶ岳へ連れて行こう。そう判断したことは、教育的に正しかったと思う。教育とは同時に、長い目でものごとを見ることだ。だから教育とは、相手に対する愛が必要だ。いちいち口出しするのではなく、じっくり事の成り行きを見守る忍耐。これこそ、肝要ではないか。
私たちの人生は、あの八ヶ岳とおなじだ。高くて、急で、大岩がごろごろ、危険がいっぱいだ。教育とは、人生の危険に対する対処能力を養うことといえる。
では、われわれキリスト信者にとり、人生の諸問題に対する対処能力、それを発揮する秘訣はいったいなんだろうか。
聖パウロは、その真髄をすばらしい言葉でハッキリと言っている。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを学んだのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方、キリストのお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
(フィリピ信徒への手紙4‐12)
そう、キリストへの信仰こそ、すべての難問題への真の解決策、秘訣なのである。それは必ずしも、私たちの望むどおりではないかも知れない。しかし私たちの願いにこたえ、必ずあの方はいちばん良き方法で、私たちの望みを叶(かな)えてくださる方である。神に感謝。主イエスにいっそう信頼をよせて、共に歩んでいきたい。