愛は冷淡ではなく冷静である

2018年3月1日

小林敬三神父(元西千葉教会協力司祭)

ある人が人生の問題で悩みました。あまりにも苦しいので人に相談しますが、誰も良い答えをくれません。その時、「山の奥で生活しているあの仙人がいる。その方に相談にのってもらおう」と、思い付きました。

「すぐに問題は解決するかもしれない」という期待を寄せながら、彼は仙人に会うために山道を登り、仙人を訪ね、相談にのってもらいました。ところが、相談にのってもらううちに夜も更け、戸外は寒く、ひどい雨風がたたきつけています。「こんな山奥、こんな天気、もう遅いのだからきっと泊めてくれるだろう」、そう内心期待をしていました。

ところが、いつまでたっても仙人は何も言ってはくれません。雨風はさらに激しくなってきました。しかし、まったく良い答えは得られません。そこで、きりがないからと、思い切って暇を告げますが、仙人は別に引き止める様子もありません。

玄関を出ると、提灯を持って、傘をさして山門まで送ってきてくれました。その時、彼は思いました。「こんな真っ暗な山道なのだから、ひょっとしたら麓まで送ってくれるかもしれない。傘と提灯だけでも貸してくれるだろう」と期待をしました。しかし、仙人は彼を山門の外に送り出すと、灯を持ち傘も自分でさしたまま、山門の扉をバタンと閉め、再び庵の方に立ち去ってしまいました。

暗闇の中で、しばし彼は呆然としていました。あの仙人はなんて冷たく冷淡な人だ。でも、彼は気を取り直し、一人ぼっちで黙々と、夜中の雨風の中の山道を、下山します。闇の中で、岩肌に足を滑らせ、木の根に躓き倒れ、衣服は泥でドロドロになりました。顔も傷だらけです。やっとの思いで麓に辿り着くと、道幅も広く平らになっています。突然目の前が「パーッ」と開けました。そして、彼は悟りました。ちょっと待て、あの時、答えが得られないまま帰り始めた自分だが、あの仙人は実に大変なことを教えてくれたのだということが分かった。

どういうことでしょう。それは、人間というのはぎりぎりの最後まで、他人への依頼心を捨てきれずにいるものだということです。この他人への依頼心がある限り何事も道が開けない、ということを教えられ、気付かされたのです。彼は、次々に望んでは一つ一つ突き放されました。最後に完全に拒否された時に初めて、それを悟ることができたのです。あの仙人の偉大さは安っぽい愛を施さなかった、愛の安売りをしなかったということです。

今までの自分の人生を振り返ってみた時に、私はいろいろ困ったことが多かった。その時、傘や提灯の灯を貸してくれた人、麓まで送ってきてくれた人のことを思い出して心から感謝しています。しかし、同時に山門の扉を閉め、踵を返して庵の方に帰って行ったという方々も、自分の人生の中に何人もいました。

そして今、どちらかというと、あの門を閉め立ち去って行った方々に、むしろ心から感謝しています。相手を思うがゆえに傘を貸してやる、あるいは泊めてやるというのではなく、相手を思うがゆえにあえて扉をピシャとしめる感覚が大事ではないだろうか?本当の愛というのは冷淡ではなく、冷静なのである。

人は皆、どうにもならない重荷を、一人で背負って生きていかなければならない。だから子どもに対する親の務めは、その重荷を取り除くことではなく(取り除けるはずがない)、その子が一人でしっかりと荷を背負いきれるように助けることです。

ある人が言いました。「教育の目的は何か、それは親がいつ死んでもいいように自立させることにある」と。早くに甘えを排除し、依頼心を取り除く努力こそが親としては必要ではないか?

あの仙人が言いたかったことは、人間というのは依頼心を捨て去らない限り何事も始まらないということです。山門をぴしゃりと閉めたあの仙人の行為、それは冷淡だったのではなく、その人の将来を見据えた冷静さであったということです。本当の愛というのは、「冷淡なのではなくて、冷静」ということを、お互い心に留めたい。

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