人間、愛すべき愚者
長崎に4日間行ってきました。何の為かと言いますと、千葉県下の3つのカトリック幼稚園の先生方の研修会ということで、合計約30名と一緒に、いわば私は引率の形で行って参りました。市内の教会を訪ね、あるいは殉教の記念の建物を訪れ、ともかく若い先生方のエネルギーには、いささか参った今回の長崎行きであった。
4日後、ここ千葉に帰ってきたが、大変疲れて、夜はベッドに入ったらすぐぐっすりと寝入った。ところが、真夜中2時頃、トイレで目が覚め、ベッドから起き上がり、2~3歩歩いたら、何かを蹴飛ばしてしまったのである。最近服み始めたアリナミンというビタミン剤のビンを、蓋をよく閉めないで足元に置いておいたらしく、それを蹴飛ばし、中味をほとんど床にまき散らしてしまった。
これは、どうにかしなければいけない。朝は朝でまた忙しいので、今すぐ何とか集めて瓶に回収しようとした。80歳近くの男が、薄暗い部屋で、真夜中の2時半、床に跪いて、一つ、二つ、アリナミンの錠剤を瓶に返している姿を想像すると、かなり異様な姿だっただろう。
しかし、不思議にイライラしたり、自己嫌悪に陥ったりもしなかった。自分でも、あれっ、と思う程、冷静に、そして淡々と、この回収作業ができた。何故イライラしなかったのか。何故、意外に冷静にその作業ができたのか。それは昔読んだ、あるイギリスの作家の言葉を、その時瞬時に思い出したからある。
「人間とは愛すべき愚者」。
彼は人間についていみじくもそのように言い放っている。愚か者だけではないのだ、愛すべきなのだ。つまり、日常、我々は生活を振り返ってみると、このアリナミンの出来事みたいに、人間というのはそもそもチグハグなことばかりしている。そうだ、自分も愚か者なのだ、しかも愛すべき愚か者。人間を「賢者」とは言っていない。愚者と言い切っているのだ。
それでも、「愛すべき、可愛げがある存在が人間だよ」ということである。だから、愚かな出来事に出会っても、あまり深刻になるな。そう思っていたら、自己嫌悪におそわれる事も無く、自らを笑うことができたのである。そして、淡々と300粒のその薬を再び瓶に戻す作業が終わったら、心静かに、いつもの通りの平静さを持って、すぐさま眠りにつけたのである。
さて、マタイ福音書の16章は、イエス様がフィリポ・カイサリア地方に行った時の事である。その時、連れて行った弟子達にこう問いかけるのです。 「人々は自分の事を何者だと言っているか?」
すると、ある弟子は答えます。「洗礼者ヨハネだという人もいます。昔の預言者のエリア、あるいはエレミアという人もいます。」
そこで、イエス様はペトロに単刀直入に訊ねるのです。「お前は私を何者だというのか?」
ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」完璧な答えです。
すると、イエスは「シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを表わしたのは人間ではなく、天の父なのだ」と、お褒めの言葉をペトロはもらうのです。
完璧なこのような告白を、信仰を宣言しながら、この同じペトロが、やがてどうしたでしょう。皆さんがよくご存知の通り、イエス様から、お前は「明日鶏が鳴くまでに3度、私を否むだろう」(マタイ26章34節)そう予言される。まさか死んでもそんなことありませんと言い切ったペトロが、何と、とことんぎりぎりになった時に、己の命惜しさに「あのイエスという人を、私は見たこともない、知らない」と、主を裏切ってしまう。
ペトロ、そして私の共通点はどういうことだろうか。それは、チグハグな事ばかりやっている、お互い愚者。それでも神様から愛されている愚者だから、お前は存在する理由があるのだよ。安心しなさい。そう励まされているように感じられ、嬉しく思ったのだった。