生きてるだけで万々歳

2017年2月1日

小林敬三神父(元西千葉教会協力司祭)

年が明けてある出来事がありました。数日前、自動車を運転していて、信号が赤だったので車を止めていました。すると、後ろのドアの方でトントンとたたく音がしました。バックミラーで見ると、なんと、一人のおばあちゃんが、私の車のドアを開けようとしているのです。そこでやむを得ず、自動開閉のプッシュボタンを押してドアを開けました。

すると、その方は上り込んできて、後ろの席に座りながら運転手の私に言うのです。「みつわ台2丁目!」。びっくりして私は、「申し訳ありませんが、これはタクシーではありません」。

そしたら、「あら、タクシーじゃなかったんだわ。やんなっちゃうな」と云いながら、そそくさと降りていった。それを見ていた私は思った。「これはとりたてて目くじらを立てて、云々するほどのことではない。私たち日常生活を振り返ってみると、同じような事をしょっちゅうしているはずである」。だから、バツが悪そうに降りて行ったあの方に向かって、小さい声でこう言った。『へまとおっちょこちょいは人生の潤滑油!』。

そうです、私達の日常生活を思い起こした時、こんなへまより何十倍、何百倍もの大きな、時には人生に影を落としてしまうような悔やみきれないへまをして、毎日私たちは生活しているのではないでしょうか。にもかかわらず、私たちは、その愚かさを抱え込みながらも幸運に恵まれて、みんな生きているんじゃないか。生きているだけで万々歳。そう思った。

今日は、世界の教会では、主のご公現をお祝いしています。ご公現とはどういう事か。イエス様がお生まれになった時に、東方の国、ベツレヘムから何千キロも離れた国で、星占いの学者たちが異様に輝く星の動きを察知する。そして、これは救い主が生まれたしるしであるということが分かって、即座に遠いベツレヘムを星に導かれて目指す。そして、お生まれになったイエスに出会い、そのみ前にぬかずき、ひれ伏して、そのお生まれになったことをお慶びしたという出来事を祝う日です。

実は、今日は、とても大事なことをちょっとここで申し上げたいのです。ご存知の通り、典礼上で一番最初に弟子たちが祝った事は、主の復活です。ですから、キリスト教の中で一番大きな祭り事は何かといったら、主のご復活です。その次はと聞いた時、多くの方は、当然クリスマスだろうと思うかもしれませんが、実は、このご公現こそ歴史的に2番目に早く祝われるようになった重要な出来事だということです。

どうして、それほど大事なのでしょうか。それは、主がお生まれになったことを見た東方の国ということが大事です。東方は外国です。外国の人が、わざわざ生まれたばかりの嬰児、イエスを拝するためにやってきたということが、福音の普遍性ということです。イエス・キリストが、決して一国の一民族のために生まれたのではなく、全世界の人々のために生まれたことを公にさし示している、という事であります。

さて、東方の3人の博士たち、学者たちが輝く星に導かれて、生まれたばかりの神の御子を礼拝しに来たわけですが、空を見上げたら、たまたまひかる星があった。そういう幸運に出会って、ということが大事なのではないでしょうか。曇っていたら見ることはできなかった。従って、ベツレヘムにやってくることもなかったはずです。

このような幸運に出会ったのも、3人が立派な信仰生活を送っていたからという事ではなく、あの学者たちもわれわれと同じように、日常へまと勘違いを繰り返しながらも、あの光り輝く星を見たのです。一方的に幸運に出会ったわけです。これは、まさに神の恵みであります。たまたま恵まれて、幸運にも人類の歴史で最初にイエス様を礼拝する光栄にあずかったのです。

思うに皆さん、私たちには神の前に偶然ということはありません。すべては神の恵み、すべては神の摂理のうちです。一様に、へまと勘違いを繰り返しながらも、とんでもない幸運に支えられて、かろうじてみんな生きているのです。人間「生きているだけで万々歳」なのです。神の恵みによって初めて、私たちは不完全ながらも、その恵みに支えられてこそ生きていることができます。

どうか今年も、まことの光であるイエス・キリストの光に導かれ、互いに感謝のうちに歩んで参りましょう。

PAGE TOPへ