死者の月を迎えて
カトリック教会では伝統的に11月を「死者の月」と呼び、死者を追悼する習慣があります。この伝統や習慣がいつから始まったのか、はっきりしないようですが、『新カトリック大事典』によれば、8世紀頃から11月1日を「諸聖人の日」として祝い始め、11世紀頃からその翌日の11月2日を「死者の日」と定め、死者を追悼する日にしたようです。
そして、これは推測に過ぎませんが、11月が典礼暦の最後の月に当たっていることも11月を「死者の月」にするようになったことと関係があるかもしれません。
典礼暦は大体、12月初めの待降節から始まり、11月末の「王であるキリスト」の主日の週で終わります。特に典礼暦の最後の2週間は「終末週」と呼ばれ、世の終わりとキリストの再臨を強く意識した朗読箇所が選ばれます。
世の終わりとキリストの再臨の出来事は、実は私たち個人の死と深く関係しています。こうした理由から11月が「死者の月」と呼ばれるようになったのだと考えられます。
さて、人間は一体死んだらどうなってしまうのでしょうか。カトリック教会では、伝統的に人間が死後に直面する現実を「四終(ししゅう)」と呼んできました。その四つの終わりとは、「死」、「審判」、「天国」、「地獄」です(『カテキズム要約』p. 331参照)。『カテキズム』によれば、私たち人間は死ぬと霊魂だけが残り、身体は腐敗します。
そして霊魂は、「私審判」を受けて、そのまま「天国」へ行くのか、あるいは浄めを受けるために「煉獄」に行くのか、あるいは「地獄」に行くのかが決まります。そして世の終わりに、地獄の霊魂も含めたすべての死者が復活し、キリストの栄光の再臨とともに「公審判(最後の審判)」が行われます。そこで正しいとされた人々がキリストとともに新しい天と地を治めるようになり、神の国は完成します。これがカトリック教会の教えです。
ここで注意しなければならないのは、「審判」や「地獄」の教えを脅しのようにとってはいけない、ということです。むしろ回心と悔い改めへの招きと捉えるべきです。「審判」あるいは「裁き」というのは、私たち人間が死んだ後、「神の愛にはっきりと出会うこと」(『新カトリック大事典II』p. 1199)とされています。
つまり、「裁き」というのは神様が裁判官のようになって、私たちを断罪するイメージではなくて、死んだ後、私たちが神様の愛に直面し、自分が生前、人を愛せたかどうか、一気に露わになる、そんなイメージだと思います。
死後、神様の愛に直面して、「ああ、いろいろ辛かったけれど、私はあなたの愛に生きることができたと思います」と言える魂はきっとそのまま天国に行くでしょう。「いろいろ状況が難しくて、なかなか神様の愛に生きることができませんでした。ごめんなさい」と反省する魂は浄められるために煉獄へ行くのかもしれません。
そして生前、最後まで神様の愛を拒んでいた人がいたとすれば、死後になって神様の愛に直面したとしても、神様はその人の自由を認めるという観点から、その人の意志を尊重し、その魂は神様から離れていきます。神様から離れる状態、これが地獄と呼ばれる状態です。
11月は「死者の月」です。亡くなった家族、恩人、友人のために祈ると同時に、自分の死をも黙想する、そんなひと月にしていきたいと思います。