地の塩・世の光
今日の福音では有名な「地の塩・世の光」の譬え話が朗読されました。この譬え話の前半でイエス様はとても厳しいことを言い、後半では私たちの信仰を励ます、そんな内容になっています。これはイエス様の教え全体に言えることなのですが、イエス様のもつ優しさと厳しさというのは、実は一つなのだということです。これを忘れてはいけないと思います。イエス様の教えを理解する上で、優しさばかり強調することもできませんし、厳しさだけを強調することもできません。イエス様の優しさと厳しさを両方一緒に受け止めていく、そんな必要があります。その意味で今日の「地の塩・世の光」の譬え話は、イエス様の教えのもつ優しさと厳しさの両方を受け止める上でよい具体例になっています。
前半の地の塩の譬え話で、イエス様はかなり厳しいことを言っています。「あなた方は地の塩である」と言っています。塩は特に料理を思い浮かべてみれば明らかですが、料理に溶け込んで目に見えませんが、しかし塩が効いていることは分かるわけです。この塩を「信仰」と置き換えてみてください。私たち一人ひとり、信仰によって味が付けられています。しかしその信仰は目で見ることができません。その意味で信仰というのは塩のように目には見えませんが、私たちを味付ける、つまり私たちの人生に意味をもたせる唯一の調味料なわけです。しかし信仰という味付けは塩気を失うことがあるのだ、とイエス様は言っています。そして、塩が塩気を失った場合、「もはや何の役にも立たず外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と、かなり厳しいことを言っています。つまり私たちがもし日常生活の中で信仰という味付けを失ってしまったならば、もはや私たちの人生に意味を与えるものがなくなってしまい、やがて滅んでいってしまう、そうイエス様は言っているわけです。もちろんこの譬え話というのは、二千年前、迫害がひどかった時代に書かれたことも影響していて、かなり厳しい内容になっています。その意味で、この厳しさも「迫害に耐えなさい」という励ましの内容だったと考えることもできます。イエス様の厳しさも、時には励ましになるわけです。
地の塩の譬え話を私たちの生活に当てはめてみたら一体どうなるでしょう。私たちの信仰にまだ味は残っているでしょうか。信仰をもつのは教会の中だけで、家に帰ったらもう教会のことを忘れてしまう、そんな塩気の失った虚しい信仰になっていないでしょうか。日常生活の中で、神様や教会の教えがこの世の価値観に押し流されているとしたら、それはもうすでにイエス様の言う、「もはや何の役にも立たず外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられた」信仰になってしまっています。このことに私たちは十分注意しなければなりません。「教会の教えは厳しいし、イエス様は何でも赦してくれるのだから、まあ教会の教えはほどほどにしておけばいいだろう」と、どこかで私たちは考えていないでしょうか。そんな状態になっているとしたら、信仰は日常生活の中で何の役にも立たず、この世的な価値観に踏みつぶされ、やがてどこかに消えてなくなってしまいます。信仰という塩気を失わないためにも、ちゃんと日常生活の中で信仰を維持しなければなりません。朝晩、あるいは寝る前にちゃんとお祈りをしているでしょうか。食前・食後の祈りを、私たちはしているでしょうか。「心の中で唱えているからOKだ」とか、「祈りは各自に任せようとか」――もちろん、時にはそういう状況もありますが――しかし教会にはちゃんと祈りの形式というものがあって、それに従って祈ることも信仰の塩気を維持する上でとても重要なことです。
どうも最近「信仰は個人の心の問題だ」という「信仰の個人主義」が教会の中にもはびこっています。しかし、それではいけないと思います。例えば「幼児洗礼」の問題がそうですが、幼児洗礼はカトリック教会にとって大切な伝統で、教会はその伝統をいまだに否定しておりません。「子どもに信仰を選ばせる」と言って幼児洗礼を受けさせない方もおります。それは親が信仰する姿を通して、その子が成人してから自発的に洗礼を望むのが、現代の価値観に当てはまるからなのでしょう。しかし実際は、その子が成人してから洗礼を受けることはほとんどありません。それは、教会の現状を見れば明らかです。この西千葉教会で私は3年間奉仕する機会を与えられましたが、ついに一度も日本人の赤ちゃんに洗礼を授けることはありませんでした。もちろん国籍や数の問題ではないのですが、フィリピン人やベトナム人の赤ちゃんの洗礼は何度かありました。これはかなり危機的な状況だと思います。つまり信仰が自分の子や孫に伝わっていない、つまり私たちの信仰に塩気が失われている可能性があるということです。塩気を取り戻すためには、しっかりと私たちは教会の教えに立ち戻っていく必要があります。それしか私たちカトリック信者には方法がありません。そして教えを日常生活の中でしっかりと実践する必要があります。朝の祈り、晩の祈り、寝る前の祈り、食前食後の祈り、ロザリオとか十字架の道行、あるいは聖体訪問といった信心業をちゃんとやっていかなければなりません。そうしないと本当にカトリックの信仰が私たちの中からなくなっていってしまうわけです。
このように厳しいことを言った上で、イエス様は私たちを励ましてくださります。今度は、信仰が「光」として表現されています。私たちのもっている信仰というのは世を照らす光です。教皇フランシスコが昨年11月に来日して、「いのち」に関する力強いメッセージを発していきました。私たちは教皇が来日したことすら日々の忙しさの中で忘れてしまっていないでしょうか。まさに教皇の信仰というのは、私たちにとって光でした。「こっちに進んで行けばいいんだぞ」と、私たちの信仰を励ます光でした。「教皇は理想ばかり言ってこの世界では実現不可能だ」と考えているのであれば、その人の信仰はもはや塩気のない信仰になってしまっています。信仰の危機です。むしろ教皇の発したメッセージを信仰の光として目印にしながら、少しずつ自分と周りの状況を変えていってみよう、教皇の発したメッセージを実際に生きてみよう、そう決心することこそ私たちカトリック信者の生き方であり使命です。
日本でキリストの愛に基づいて平和を語る人というのは、私たちキリスト者しかいないと思います。教皇の発言は、全世界で注目されています。これは別にプロテスタントの方々を下に見るということではありませんが、しかし例えばプロテスタントの牧師先生が教皇のようになれるかといえば、なかなか難しいわけです。その意味で、教皇に代表されるようにカトリックの信仰というのは、世の光としてかなり影響力をもっています。そして、その同じカトリックの信仰を私たちももっています。ですから私たちもまた自分の信仰の光を、この日本で輝かしていかなければなりません。そのためにもやはり話が最初に戻ってしまうのですが、ちゃんとカトリック教会の教えや価値観を自分のものにしておかなければなりません。「教会の教えは今の日本に合わないから、まあほどほどに守ることにしよう」という、いい加減な態度では本当に塩気を失ってしまいますし、到底光として人々の前に輝かせて、人々の中にある、あるいは自分の中にある罪の闇を打ち払うこともできません。イエス様は「あなた方の光を人々の前で輝かせなさい。人々があなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の御父をあがめるようになるために」と私たちを励ましています。つまり私たちの信仰が光となって、人々を天の御父へと導いていく、そんな力に私たちもなれるわけです。今の時代、信仰とか犠牲は流行らないかもしれません。今の時代の価値観からすれば、信仰や犠牲は損するもの、あるいは邪魔なものなのかもしれません。しかし実際そう感じてしまっているとすれば、すでに私たちの信仰という塩気は失われてしまっています。信仰という光が升の下に置かれて、真っ暗な状態になってしまっています。
私たちの信仰が塩気をもち続け、光として人々を照らすものとなりますよう、これからいただくご聖体のイエス様によって力づけていただきましょう。
2020年2月9日説教(マタイ5・13-16)