新年度にあたって
新年が始まり、もはや2月になりました。私たちは昨年、「聖年」を過ごしました。多くの方々が「巡礼」や「祈り」など、様々な方法を通して昨年の1年を聖なる年として過ごされたと思います。私たち西千葉教会も1回の徒歩巡礼と3回の日帰り巡礼を企画しました。多くの信者さんが参加してくださったので、個人的にはとても良い時間を過ごすことができましたし、嬉しかったです。
ルカ福音書の4章によると、イエス様は「聖年」を宣言される時に次のようにおっしゃいました。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と。これは「神様から注がれる喜びのうちに1年を過ごしなさい」という恵みに満ち溢れる宣言ですし、私たちがそのように過ごすことができるのはきっと神様が授けられる恵みのおかげです。 それでは「聖年」が終わった今年は聖なる年ではないのでしょうか? 聖地や教会に行って神様に心からの祈りを捧げる行いが今年はその意味を失うのでしょうか? 全くそうではありません。私たちが神様に向けて行うすべての行為と捧げるすべての祈りは昨年と同じようにとても意味のある信仰的な行いです。したがって私たちは昨年と同じように今年も聖なる1年になるように努力をしなければなりません。
使徒ヨハネは、キリスト者の生き方について次のように語りました。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です」と。ヨハネのこの言葉は「神の子である私たちがこの世で聖なる人生を生きるためにはどのように生きなければならないのか」についての指針なのです。
またイエス様は湖の中で逆風によって恐怖に震えている弟子たちに「恐れるな」とおっしゃいました。これは「困難と苦難で苦しんでいる私たちをイエス様は必ず助けてくださる」という意味のみ言葉です。したがって私たちにとって「聖年」は「神様からいただいた愛によって神様を愛し、私たちがお互いに愛し合いながら生きている今だ」と言えます。このような意味でイエス様の「聖年の宣言」は「父である神によって遣わされた私が行う奇跡を見、み言葉を聞き、その教えを受け入れて信仰の道を歩む神の子になりなさい」という招きだとも言えます。
2025年の聖年は終わりました。そして25年後にまた聖年が宣言されるはずです。しかし私たちにとっては、聖体をいただく毎日が聖年の始まりの日なのです。常に私たち皆を神のもとに戻る恵みの道、喜びの道に招いてくださるイエス様に感謝しながら、その招待に応じる人生を生きるために努めてまいりましょう。
