イエスのみこころ

2024年6月9日

キムピルジュン神父

 西千葉教会の皆さま、「てくむ」を通して初めてご挨拶を申し上げます。今年の4月から西千葉教会の助任司祭として赴任した洗礼者ヨハネ金泌中(キム ピルジュン)と申します。2022年4月に日本に参りましたので、まだいろいろとよく分からないところ、足りないところが多いと思います。これからよろしくお願いいたします。簡単な自己紹介をさせていただきますと、

 私は韓国のソウル教区の出身で、1981年にソウルで生まれ、1983年に幼児洗礼を受けました。ソウル神学校には2004年に入りましたが、その前に一般大学での1年、軍隊での2年の期間がありました。そして7年間神学校で勉強し、2011年に司祭になりました。生まれたところも、育ったところもソウルなので、司祭叙階も自然にソウル教区で受けたのだと思います。

 恥ずかしい告白ですが、実は私は私自身の信仰を非常に強く否定した時期があります。幼児洗礼を受け、中学生の頃まではほぼ毎週教会に行っていました。でも思い出してみると、その時も無理やりに行っていたように思います。そのような中、高校生になってからは信仰についての反抗心が非常に大きくなり、キリスト者として生きること自体を拒否しました。「自分の意志で受けた洗礼ではないのに、何でこのように無理やりに通わなければならないのか」と思ってしまったのです。

 しかしこのような気持ちは長続きしませんでした。高校3年生の時受験に失敗した私は全寮制の塾に入って1年間浪人生活をしましたが、その時体重が23キロ減るほどかなり大変な経験をしました。ところが先輩の一人は熱心なプロテスタント信徒で、プロテスタント教会の毎週の礼拝を通してその時期を耐え忍ぶ力を得ているのが感じられました。そこで私は「私も幼児洗礼を受けているのに、何で何の力も得られていないのか」と思い、突然「教会に行きたい」「ミサにあずかりたい」という気持ちが心の中に強く生じました。

 それから教会に行き、3年ぶりにミサにあずかりましたが、その時の聖体拝領の瞬間は今でも忘れられないほど強烈な体験でした。なぜかというと、ご聖体が私の中に入ったとたん、これまで汚れていた私が清められるように感じたからです。「あ、神の存在を全く否定していた私を、教会から離れていた私を、神様は何事もなかったかのように受け入れてくださっている」と感じたのです。まるで放蕩息子を抱いた父のように、その時の聖体拝領を通して罪深い私も神様が抱いてくださったと思い、その慈しみに感謝するしかありませんでした。

 カトリック教会は6月にイエスの御心を記念します。このイエスの御心は、いつでも罪深い私たちを受け入れてくださる心ではないかと、私は思っています。西千葉教会の皆さまも今月私たちに対する神様の満ちあふれる愛を感じることができますように、心からお祈りします。

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