主は皆さんと共に
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音1章23節)
預言者イザヤが語ったイエスさまの誕生は約700年という歳月を経て実現しました。新約聖書の中でイエスさまは直接「インマヌエル」と呼ばれることはありませんが、まさしくその生涯は、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、十字架の死に至るまで常に神と共にありました。
そしてまたわたしたち人間と共にあるために人となり、この世の中に宿られたのです。神がこの世に生きているわたしたちすべての人間と共にいることを、多くの人々と、それも神から見放されていると思われていた人々と共に過ごすことを通して示してくださいました。わたしたち教会はそこに救いを見るのです。
主の降誕において、わたしたちが何よりも祝うことはここにあります。ある神父様の説教はいつもこのことを強調します。どんなに腹立たしい人であっても、「その人も神さまが共におられる」と思うそうです。どんなに理不尽なことがあっても、「そこに神さまが共におられる」と考えるのだそうです。
そして失敗をして落ち込んでいる自分にも「神さまが共におられる」といつも言い聞かせるのです。そうすることによってどんなに都合の悪いことであっても、そこに新しい意味を見いだすことができます。神さまがともにおられるところ、そこには必ず愛といつくしみがあります。確かにそこには新たな息吹が吹き込まれ、希望が生まれます。
そしてわたしたちにとって「共にいる」ことは大きな力にもなります。孤独は大きな危険です。共にいてくれる家族や友達、仲間に助けられたことは誰にでもあることです。聖書の初め、創世記に神さまは「人間が独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)と言ってアダムに合う助ける者としてエバを創造されます。
人間が男と女とに造られているのは共にいて助け合うためです。それでも罪を犯し孤独に陥ってしまう人間のため、神さまはイエスさまを罪人として十字架につけられます。そして回心する者には「一緒に楽園にいる」(ルカによる福音23章43節)と約束してくださいました。
教会もまた、2000年の間キリストがわたしたちと共にいることを示し続けてきました。何よりもミサの中で何回も司祭は呼びかけます。「主は皆さんと共に」。救いは共にいることによって実現します。わたしたちも苦しみや孤独にある誰かに寄り添い、共にいることで救いを示していくことができますように。