聖母マリアの被昇天

2026年8月15日

キムピルジュン神父

 クルーズ船に乗ると、向かっている目的地より当日の食事や遊びにさらに興味を持つようになるそうです。私はまだ乗ったことがないのでよく分かりませんが、おそらく周りの風景があまり変わらないからではないかと思います。遠くには何もないので、目の前の物事にだけ集中することになるのです。

  これはクルーズ旅行の特徴ですが、今日の私たちの生き方もこれと似ていると思います。自分の将来を考えて計画を立てることより、例えば「夕食を食べながらユーチューブやネットフリックスを見る」という今の楽しみにハマることで満足を感じるのです。

  もちろん何気ない出来事から日々の満足を感じることも大事です。しかし現在の状態が永遠に続くわけではありません。人間は年を取り、それに合わせて自分ができることにも徐々に限界が生じるからですが、現代人の生き方がこのようになったことには「社会的原因」と「個別的原因」に分けて見ていくことができます。

  まず「社会的原因」としては「自分の将来について計画を立てようとしても、すでに築かれている様々な壁がとても固く、高いので、乗り越えることが難しすぎる」ということです。そこで最初から無力感を感じ、自分の目標を成し遂げるための努力さえ試みないのです。

  続けて「個別的原因」ですが、いつの間にか私たちの考え方の中から「苦しくても耐える」「永遠である」という概念の価値が少しずつ下がっています。その結果、私たちは「責任」「持続」「忠実」「忍耐」など、自分の人生で「苦しみ」「辛さ」になることを次第に遠ざけようとしていますが、これの問題は「遠い未来を見通すことができなくなる」ということです。

  したがって私は、この個別的原因のほうが先に解決しなければならない、より根本的な問題だと思います。私たちキリスト者は「いつかは終わるこの世」ではなく「その後続く永遠の命」を求めながら生きている者です。しかし、遠い未来を見通すことができなくなると、何を自分の使命として受け入れ、どのようになることを目指して生きるべきなのでしょうか?また「信仰」は、どのような意味がある行いなのでしょうか?

  このような意味で「神様の計画に素直に従ったマリアの生涯」と、それによって与えられた「被昇天」という結果は、今日の私たちに「信仰の必要性」と「従順の偉大さ」、「私たちが至るべき終点」を見せてくれます。そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」というエリサベトの言葉は「この世と天の国のうち、どちらに向かって生きるべきなのか」という問いの答えになるものです。

  あるイタリアの司教は次のように語りました。「永遠性を失うと、地平線はいつも狭く見えてしまう。」と。「神様を忘れると、人間は今この瞬間だけを考えることになる」ということです。

  「私たちの信仰の道は聖なる巡礼の道であり、その終わりは聖マリアの終わりと同じである」ということを思い起こしながら、父である神のもとに戻るために祈り、努めてまいりましょう。

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