主の復活おめでとうございます
主の復活おめでとうございます。今年も聖週間と復活祭を皆でお祝いできることに、何よりも感謝です。
今年は四旬節に入る直前にロシアがウクライナに軍事侵攻がはじまり、いまだ解決されていない状況です。連日攻撃される町や逃げ惑う一般市民の映像を見続けながら、まったく人ごととは思えない気持ちで過ごしてきました。また一年前より政情の不安定が続いているミャンマーについても同様です。このような気持ちで復活祭を迎えることに戸惑いを覚えます。
毎日のように平和について祈り、考えます。誰もが平和であることが当たり前のことであってもらいたいと願っているはずです。それでも争いや闘いは、自分の平和を守るために始められます。そのために互いに武器を備え、威嚇し、自らの力を誇示します。また自らを正当化し、周りを攻撃するのです。しかし暴力はどのようなことがあっても正当化できないはずのものです。自分の平和のために隣人の平和を踏みにじることは断じてゆるされません。それでも平和という目的を達成するため、この暴力が歴史の中で何度も繰り返されてきたのです。そして今もそれは続けられています。
これはウクライナとロシア、ミャンマーだけの話ではありません。日本においても自分たちの平和を守るためにみんな必死です。そこから振り落とされないように、子どものときから緊張しながら生活を送っています。平和を得るために知識を積み、身体を鍛え、安全な地位につこうとするのです。またその競争に勝ち抜くため、多額のお金を支払い、知識や力を武器として備えるのです。それでも自分の平和を守る保障は得られません。
確かにわたしたちは平和である権利があるはずです。平和に生活することは、人間らしく生活することの基本です。それなのに隣人を出し抜き、非人間的な暴力によってそれを得、守ろうとすることに矛盾を感じます。平和のためにと不正や暴力を正当化するところに、わたしたち人間の罪の深さが示されるのです。イエスさまを裏切った使徒たちのように。
そんなわたしたちに、復活したイエスさまは傷ついたご自身の身体を示し、「平和があるように」と呼びかけます。イエスさまはその傷によって罪をあがない、復活して罪のゆるしが真実であることを示されました。それによって使徒たちは再び立ち上がり、救いに向かって歩みを始めるのです。だからこそ同じように、今様々な困難の中で傷ついている人たちの傷は、わたしたち人間と全世界の罪のあがないにつながるものなのです。わたしたち教会は、この尊い傷をキリストの受難に結びつけ、真の平和と救いへ向かって再び立ち上がり、歩みを始めなければなりません。キリストの復活の恵みのうちに、心を新たにいたしましょう。