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私の信仰生活

プチ・フォワイエ

シリーズ<わたしの歩んできた道>第1回
 私の信仰生活
鶴見 よし子

 

 私が千葉市吾妻町の千葉教会を訪れたのは、昭和24年(1949年)2月、29歳の時でした。生まれ育った満州から敗戦帰国し、仙台に1年余り住み、その時に受洗いたしました。仙台での妹たちとの信仰生活を経て、千葉に参り、新しい教会に大きな期待をもって伺ったものです。

 その時、教会はプレハブのかまぼこ型のものが2個(アメリカの兵隊がよく使っていたもの)、1個は聖堂として、もう1個は、近く開園される幼稚園が使用することになっているものでした。東京育ちの若い山本神父にお目にかかりましたが、その折、戦前の保育学校で勉強した事をついつい申し上げたら、その場で「 是非に・・・ 」と言われて、二人の子供を抱えながら、お勤めをすることを決心してしまいました。

 開園までのわずかの間、古い信者の先生方と、何から始めてよいやら、毎日の様に大騒ぎをして、子供たちを迎える準備に取り掛かり、開園した時のざわめきは、今になっても頭の中に残って居ます。

 主日のミサは、まだ旧典礼の時代でしたので、グレゴリオの歌ミサでした。そのうちにオルガンも弾かせて頂くようになったのです。日々が教会の中の幼稚園で、忙しい時を過ごし、第一回、第二回の園児の卒業式を経験してきた時、夫の福岡への転勤のため、1年間の不在。再び、千葉に帰ってのち、教会は西千葉へ移転。山本神父が亡くなられ、小倉神父の着任。典礼刷新の時代を迎え、聖堂は祭壇の方向変え、聖体拝領時の聖体拝領台(ご聖体を頂く時、膝まづく体を支える手すりで、祭壇の端から端まであったもの)を取り除くなど、私たち信者も眼を廻す配置換えを、一人で静かになさって居られました。 のちに、幼稚園運営の問題が出され、ご苦労されたのを私はそっと拝見していたことも思い出されます。

 それからは、吉川神父の着任。今もまだ同じ時代を過ごした多くの方々が教会におられます。本当にお恵みの新しい時代を生きる信仰を持つために、先ず聖書を読むことを学びました。多くの司祭方をお呼びして、典礼のこと、黙想会などと、お話を伺うたびに、私たちの信仰は、喜びを持って神に感謝いたしました。聖書100週などは、あんなに自分で勉強したのに、旧約は少なからず忘れてしまったのは、その後の努力のなさなのですが・・・。

 私には、オルガンの責任がありました。パイプオルガンを1979年に桑田さんからご寄贈頂いてからは、オルガンと共にの教会生活でした。殊に今でも大切な出来事として、西千葉100年祭のためのミサにバルトリッチ(グレゴリアン天使ミサ)を1年かけて、信者の皆様も一緒に捧げたことです。勿論、指導者がいないと出来ないことですので、サレジオ会の伏木神父が1年を通して土・日のミサに来てくださり、少しづつ信者の皆様にミサ曲を教えてくださいました。あの大曲をみんなでお祝い日に捧げたことの喜びは、私一人の思い出でしょうか。伏木神父ともう一人、竹前光子先生が、パイプオルガンを今に至るまで、導いて下さっていると私は信じ、感謝して居ます。

 私は、日々神に感謝し、小さな信仰を大切にしてきましが、聖堂・司祭館の掃除、洗濯も出来る限りの仕事をさせて頂きました。

 今年86歳のお恵みを頂いて、神様のご計画のうちに、私は何を求められているのかと、未だに思案の中ですが、今は神の光の中に行かれた司祭方、諸先輩、友人たちと祈りを共にしているのみです。

 この文を書く前に、私は教会誌「 聖母と共に 」を手許に持ってまいりました。過去の月日を正確に知るためですが、今までしっかり目を通して居なかった「 旅する教会―百年の恵みに寄せて― 」を、不思議な思いにとらわれて千葉教会の歴史を読んで参りました。

 カディヤック神父の足で歩き回られた時代から、終戦までの長い年月を過ごされた司祭や信者の皆さんの日々の生活が、今では貴重な時であったと思います。そして、最後になりますが、小松神父の、戦時グアム島から土井大司教にあてた手紙を読んで、本当に涙してしまいました。どうぞ皆様、教会にありますので、ご一読くださいませ。

 あの頃、夢中になって原稿を書いていらした故西川さん、手塚さんその他の皆様のご努力に、今、あらためてお礼申し上げます。

 今は、足を悪くして不自由な私は、教会のどこにいてもお客様扱いです。「 ここにお座りになって 」とか「 お茶をどうぞ 」など、喜んで皆様のご厚意を頂いております。吾妻町時代から53年の時を生かされて、お恵みに感謝。神に感謝