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クリスマスについて

プチ・フォワイエ

クリスマスについて
四街道地域 里野 泰昭

 

 12月ですから、クリスマスについて考えることがやはり自然なことでしょう。世間ではジングル・ベルのメロディがひっきりなしに流れ、クリスマス・ツリーの電球が点滅しています。クリスマスは主の生誕の祝日であり、うれしい知らせが伝えられた日ですから、その日を楽しく祝うことは別に悪いことではなく、そのことで特に目くじらをたてることはないのですが、初めてのクリスマスのお祝いは静かなものであったことを思い出してみるのもよいことなのではないかと思われます。

 救い主が生まれたことをはじめに知らされたのは羊飼いたちでした。これは意味深いことであったと思われます。彼らは羊たちを守って、寝ずの番をしていたのです。夜中に猛獣が襲ってくることがないように、神経をとぎ澄ませて寝ずの番をしていたのです。聞こえるのは焚火のはねる音だけだったでしょう。私たちも寝ずの番をして、罪という猛獣、自己中心的な執着心という猛獣に対して備え、私たちの羊、私たちの心のなかに生まれる救い主を守り、そして天使が現われたときには、いつでも直ぐに、救い主のもとへと急ぐことができるように準備していたいものと思います。

 3人の博士たちも、新しい星を見つけてすぐにそれに従いました。新しい星は確かに他の星よりは明るい星であったのであろうと思われます。しかしそれを発見するためには、いつも気遣って星をみていなければならなかったのでした。その日その日の心のわずらいに気を取られ、心のなかの星を見失ってしまうことがないように、私たちはいつも気を配っていることが必要なのではないかと思われます。

 ところで私たちは、なぜイエス様の誕生日を祝うのでしょうか。もちろん、誰にとっても誕生日は特別な日です。それを祝うのは当たり前のように思われます。しかし、イエス様の誕生日を祝うということは、私たちの兄弟や、両親、或いは子どもたちの誕生日を祝うのと同じことなのでしょうか。愛する人の誕生日を祝うのと同じような意味で、イエス様の誕生日を祝うのでしょうか。救い主の誕生日を祝うということは、この世に神の救いが現われたことを祝うのです。ただ単にひとりの幼な子の誕生日を祝うことではないのです。12月25日がクリスマスとして祝われるようになる前には、復活祭に主の降誕が祝われていたこともあったと言われています。たしかに、復活祭は神の救いの現われた日でした。 また、東方教会ではご公現の祝日(1月6日)に主の降誕が祝われています。この日はもともと主の洗礼を祝う祝日でした。イエスの救い主としての働きは洗礼を受けたときから始まりました。マルコはその福音を主の洗礼で始めています。西方教会(ローマカトリック教会)では、ご公現の祝日には3人の博士による幼な子イエスの礼拝、主の洗礼、カナの婚姻が祝われます。そこでは、3人の博士の礼拝によってイエスが救い主であることが公けにされたこと、洗礼の後にイエスのうえに聖霊が降り、天から「 あなたはわたしの愛する子 」との声がし、イエスが神の子であることが示されたこと、カナの婚姻においてイエスが水を葡萄酒に変える奇跡を行ない、初めて神の子としての栄光を現わされたことが祝われるのです。クリスマス、主の降誕祭とは、イエスが救い主であり、神の子であることが公けに示されたこと、神の救いが世に現われたことを祝う祝日なのです。

 ストラスブールからそう遠くないところにあるコルマーという小さな町に世界的に有名な祭壇画があります。マティアス・フォン・グリューネヴァルトという16世紀の画家の描いたものですが、一番おもてにはキリストの受難の場面が描かれています。その扉を開けると中からいろいろの絵が出てきますが、その中に幼な子を抱いた聖母の絵があります。 聖母に抱かれたイエスは引き裂かれたぼろ布に包まれていますが、そのぼろ布は十字架上のイエスの腰にまかれていた布と同じものなのです。グリューネヴァルトはこのことによって、イエスの誕生は十字架上の受難に直結していることを表わそうとしたのであると言われています。クリスマスと聖金曜日は1つなのです。人間として生まれた神は苦しみを受けねばならなかったのでした。

 ヨゼフとマリアはベツレヘムで宿を見つけることができず、厩を宿としなければなりませんでした。人口調査のために故郷に帰ってきた人たちで宿がいっぱいだったので、2人は宿を見つけることができなかったのだということで、このことは普通には説明されています。人々が不親切で、貧乏な2人に宿を貸そうとする者は1人もいなかったとつけ加える人もいます。

 しかし、フランシスコ会の本田神父は、そのようなことはあり得ないと言います。中近東の人たちはお客さんに対しては非常に親切で、よそから来た人に場所がないからといって追い出すようなことは絶対にしない、どんなことをしても、互いに詰め合わせてでも泊まらせてあげる、と言います。ヨゼフとマリアが泊まらせてもらえなかった本当の理由は、マリアのお腹のなかにいる子がヨゼフの子ではなかったからだと言います。そういう噂はたちまちのうちに広まるものです。私たちはマリアが聖霊によってみごもったことを信じていますが、当時のベツレヘムの人たちにとってはそんなことは問題にならなかったのでした。父なし児をみごもった女を家のなかに入れることはできないということだったのでした。イエスはその生誕の初めから人々から差別を受けたのでした。神の救いはこのような形で世に現われたのでした。

 クリスマスはイエスの誕生日です。しかし、私たちはただ誰かの誕生日を祝うようにイエスの誕生日を祝うのではありません。2000年前にその人が生まれたことを、今年もまた祝うということではありません。

 私たちはこのクリスマスの祝日の日にあたって、神の救いが、いまここに現われたことを祝うのです。

 今日、イエスが私たちの心のなかに新たに生まれ、私たちを新しくしてくださることを祈り、願いつつ、この日を祝うのです。イエスが受けた差別を思い、イエスが差別された人々のもとに赴き、そのために十字架上の苦しみと死を受けることになったことを思い、このイエスを父なる神が「 わたしの愛する子 」と証しされ、復活の栄光を与えられたことを思いながら、父なる神が子イエスを私たちに遣わしてくださったことを感謝しながら、この日を祝うのです。

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 10月と11月と2ヶ月にわたって『てくむ』への投稿を休んでしまい、申し訳ありませんでした。原稿の提出の最後の時までに必ず書き上げるつもりでいたのですが、他の仕事があり、そちらの仕事を優先させなければならず、『てくむ』の仕事が後回しになってしまいました。誠に申し訳なく思っております。その仕事というのは、新教皇ベネディクト16世の回想録の翻訳の仕事で、12月のはじめには書店に出回る予定です。できれば教会でも売らせていただければと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。お詫びと宣伝が一緒になってしまったこと、お許しください。

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『月報・てくむ』チームより 今月号を持ちまして、里野さんの典礼コラムは終了致します。
 里野さんには今年1年間、ご多忙の中、典礼コラムをご執筆いただきまして、誠にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。