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神学生便り 「小道を歩けば」 ~神の国と人の国~

プチ・フォワイエ

神学生便り「小道を歩けば」
~神の国と人の国~
倉田 厚

 

 先月は、WYDの報告で、「 小道を歩けば 」をお休みしてしまいました。内容は前号の続きみたいなものです。

 わたしたちは人の国に住んでいます。千葉市とか、日本とか、東京教区とか。そこで生きるには多様な条件があるように思います。実際に、生きるためにいろいろ必要です。 「 生きる 」というと、これぞ核心であり、欠かすことのできない大本命として考えてしまいますが、果たして「 生きる 」とはどういったことなのでしょうか?

 この1ヵ月、ここをどのように意識するかをわたしは問われました。

 まがりなりにもカトリック信者であるわたしは、神の国にあこがれています。そこは無欠の世界。ただひたすら喜びに満ち溢れている。

 その神の国は現代にも現れている。これがイエスの教えです。ちらちらと垣間見えている。神の国が到来し始めている。神の国の完成のため、地上の教会はその先取りとしてある。

 「 生きる 」ということばの主語は、「 からだ 」と「 こころ 」の二通りあるようです。からだがなければこころが生きようがないという価値観は、この世のものです。なぜってそこに救いがないから。

 こころは生きる。神がそう望むから確実に生きる。神が吹き込んだ命の聖霊である「 こころ 」は、無条件で生きている。その聖霊に対して、無条件に「 はい 」といえるなら、いきいきと生き始める。

 「 からだ 」が生きているかが条件だと思うならばよくよく考えてください人の命の尊さ、そのはかなさ。過ぎ行くものではなく、永遠に残るものを。

 「 いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい

(テサロニケの信徒への手紙2 5:16-17)

 逆境に見えても、どんなに大きく神に背いたとしても、まごころから望めば、必ず、いきいきと生きる道があるわたしのからだは朽ちる。けれど、わたしの心、命、信仰は、神とともに生きたいと切に望んでいる。

 すべての人が、いきいきと生きることを神は望み、そこに神の国がある。

 このイエスが神の国のかたどりとして残された教会であるわたしたちは、喜びに満ち溢れていたいですね。

 逆境にあっても喜びを探し、たえず、祈り続けていたい。