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どの宗教であっても救われるのか

プチ・フォワイエ

どの宗教であっても救われるのか
四街道地域 里野 泰昭

 

 9月5日は福者マザー・テレサを記念する日となっています。マザー・テレサについては皆さん既によくご存じのことで、私が何かをつけ加えて説明するまでもないことと思いますが、1つだけ、マザーが亡くなった方を弔うのに、その人の宗教の弔いの方式にしたがってなさっておられたことを考えてみたいと思います。

 人はそれぞれにそれぞれの宗教を持っており、その宗教によって心の平安を得ているのです。特に死に際してその宗教によって死後の浄福を得ることを望んでいるのであれば、その人の宗教の弔いの方式によってその方の死を弔うことは、その方の信仰を尊重することであり、その方への愛を最後まで尽くすということになるので、マザーのなさったことは真にキリスト教的なことであったということができると思います。

 しかし、それでは宗教であればどの宗教でもよいということになってしまうのでしょうか。現在いろいろのところで、プルラリスム、複数主義ということが言われています。今まではヨーロッパ的な価値観、キリスト教的な世界観だけが正しいものとされてきたのでしたが、世界にはいろいろの価値観、世界観があるということが知られるようになり、そのそれぞれがそれぞれに意味を持っているのだということが認められるようになりました。そのこと自身は正しいことであり、よいことなのですが、それではキリスト教はそれらのものの1つにすぎないものとなるのでしょうか。キリスト教でなくともよい、仏教でも、神道でもよいということになってしまうのでしょうか。

 いろいろの宗教について考えるときに、富士山に登るのに登山道は沢山あるが、頂上は1つであるという譬えがよく用いられます。この譬えは一見非常に説得力があるように思われますが、その意味するところは、どの宗教でも同じ、どの宗教でもよいという意味に普通は理解されているように思われます。キリスト教でも、仏教でも、何でもよい、信じている人のそれぞれの宗教で人は救われるのだということになります。それでよいのでしょうか。

 もしそうであれば、私たちはなぜキリスト教を信じているのでしょうか。たまたまカトリックの家庭に生まれたから、たまたまカトリックの友達がいたから、或いはまたカトリックの人と結婚したからというだけのことなのでしょうか。もしそうだとしたら、カトリックをやめても別にどうということはないということになります。もちろん、皆さんはそういうことでカトリックであるのではないと思います。きっかけはそうであっても、カトリックの教えが正しいと思っているから、カトリックの信仰を受け入れておられるのであろうと思います。しかし、それでは他の宗教の教えは間違っているのでしょうか。

 キリスト教の教えによれば、神はすべての人が救われることを望んでおられます。(1テモ2,4)。しかしそれはキリストを通してであると言われています(1テモ1,15:2,5)。キリストの十字架における救いの業はすべての人を救いに導くのです。そうすると、やはりキリストを信じるのでなければ救われないということになるのではないでしょうか。

 これに対する教会の公式の見解は、本来的にはキリストにより、教会によって救われるのであるが、避け得ない無知によってキリストを信じないのである場合、善意と、永遠の救いを得たいとの含蓄的な願望を持っているならば、その人はその善意と願望によって救われると言っています(回章『キリストの神秘体』1943、及びそれに関連する聖庁の書簡1949)。つまり、本来的にはキリストによって救われるのであるが、キリストを信じていなくとも、救われたいと願い、正しい生活をしていれば救われるというのです。

 これについて神学者は何と言っているのでしょうか。カール・ラーナーの「 匿名のキリスト教 」の考えはよく知られていますが、それによれば、すべての宗教はキリスト教と名のっていなくとも、匿名でキリスト教と認められるというのです。これは一見、それぞれの宗教を認めているように見えますが、実はそのものとしては認めないということです。匿名のキリスト教としてしか認めていないということです。それだけでなく、もしすべての宗教がそのままで既に匿名のキリスト教であるとすると、キリストの福音を宣べ伝えることの意味がなくなってしまいます。

 ロベルト・シュレッテという神学者は、ユダヤ教の律法がキリストの福音への準備(ガラ3,24)であったように、いろいろの宗教も福音への準備であるという考えを述べています。この考えは聖書的であり、受け入れることが可能であるように思われますが、それにしてもこれはキリスト教の立場からのみ言い得ることです。ユダヤ教についても、ユダヤ人はパウロの言ったことをそのままには受け入れることはできなかったでしょう。

 これらの教会の考え、神学者の考えをざっと見て言えることは、これらの考えも基本的には富士山の譬えと同じ構造になっているということです。どの宗教であっても、その人が善意と救いへの願望を持っていれば、結局は救われるのです。ただ、日本的な理解では富士山の頂上がどうなっているかについては何も言われていない、或いは意図的に曖昧にされているのに対し、キリスト教的な説明では頂上はキリストであることがはっきりと言われている点が異なると言えましょう。だからキリスト教は自分だけが絶対に正しいと思っている、高慢であり、独り善がりであると言われそうですが、これはどう考えたらよいのでしょうか。

 問題はただ救われるかどうかということではありません。救われるとは何を意味しているのか、どのような意味で救われると言われているのかということです。仏教での救いとキリスト教での救いは同じことを意味しているのではないでしょう。このことについて説明すると長くなるので、省略しますが、もしその宗教を信じているのであれば、その宗教の意味で救われることを考えるのであり、その信仰を富士山の頂上に持ってくるのは当然でありましょう。それを曖昧にしておくのはかえって不誠実であると言うことになるのではないでしょうか。しかしそれは、この宗教の理解ではそうなるという意味において、つまり主観的な理解であるという自覚のもとで行われるのでなくてはなりません。その自覚なしに、客観的な事実として主張するのであれば、それは独善の謗りをまぬかれないということになるのでしょう。

 それでは公会議はこれについて何と言っているのでしょうか。以前には、教会は救いの制度であるということが強調されていました。救われるためにはこの制度によらなくてはならない、つまり教会に属していなければならないというのです。しかし今回の公会議では、教会は救いの制度であるという言い方をしないで、その代わりに、教会は「 キリストにおける秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具 」(教会憲章第1章第1項)であると言っています。つまり、教会はすべての人が救われることを示すしるしであり、そのための道具であるというのです。

 公会議は、他宗教の人がどのようにして救われるかという問題、いや、それ以上に、キリスト教徒であろうとなかろうと、個人の救いの問題は避けたのではないかと、私には思われます。それは神が決める問題であって、人間がどうこう言う問題ではないのです。それより教会はこの世の中にあって何をしなくてはならないか、どのようであらねばならないかを問題にしたのであると思います。

 古くから「 教会の外に救いなし 」と言われてきました。これがもとで長いこと、教会の中にいないと救われないという狭い考えが支配してきました。しかしフランスの神学者のイヴ・コンガールは、これを「 教会なしに救いなし 」と読み替えたほうがよいと提案しています。教会は救いのしるし、救いの道具であり、救いがあることを世界中に知らせるためにあるというのです。キリスト教徒が愛を行なうならば、それによってすべての人は、この世は捨てたものではない、この世にも救いがあるのだという希望を抱くことができるのです。教会はそのための道具なのです。教会は人々にキリストにおける救いの希望、愛による救いの希望を知らせるものであって、教会のなかにいないと誰も救われないというのではないのです。