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聖母被昇天について

プチ・フォワイエ

聖母被昇天について
四街道地域 里野 泰昭

 

 8月といえば聖母被昇天祭です。しかし被昇天について書く前に、聖母マリアについて決定された教義について簡単に目を通しておきたいと思います。聖母マリアについては、神の母、処女懐胎、無原罪の御宿り、聖母被昇天の4つの教義が決定されています。このうち始めの2つは古代において決定されたものですが、後の2つは近世になってから決定されたもので、ローマ・カトリック教会以外では認められていません。

 マリアが神の母であるということは431年のエフェソスの公会議で決定されました。マリアにこの称号が与えられたのは、マリアが生んだのはただの人間イエスで、その人間イエスが後に神となったとする考えが当時あったのに対し、イエスは生まれたときから神であったということをはっきりさせる必要があったからでした。マリアは、人間であるとともに神であるイエスを生んだので、神の母と呼ばれるというわけです。ものを知らない人の書いた本には、当時、特にエフェソスで信じられていた、異教の神々の母である大地母神への信仰をキリスト教が取り入れたというようなことが書いてあることがありますが、これは見当違いも甚だしいと言わなくてはなりません。

 処女懐胎は聖書に根拠づけられた信仰であるということができましょう。マリアは天使のお告げに対し、「 私は男の人を知りませんのに(ルカ1:34) 」と答えており、マタイ福音書もそのように語って(マタ1:18)います。マタイ福音書はイザヤ書の予言(イザ7:14)を引用していますが、ここで言われている「 乙女 」とは必ずしも処女を意味するものではないと言われています。しかしここで重要なことは、聖書もはっきり言っているように、マリアは聖霊によってイエスを宿したということです。処女懐胎については、そのようなことがどのようにして可能なのかを詮索するより、聖書に書いてあるからそれを信じるということで充分であると思われます。

 神学校のマリア論の講義のとき、教授が「 私はマリアについての産婦人科的な所見を述べる者ではない 」と一喝し、学生の拍手喝采をあびたことを思い出します。

 この2つの教義は、形はマリアについての教義ですが、内容はキリストについての教義です。イエスは聖霊によってマリアの胎に宿られたのであり、その存在の始めから人間であるとともに、神でもあったのです。序でに申し上げるなら、エフェソスの公会議の20年後に行われたカルケドンの公会議(451)では、「 キリストは完全な意味で神であり、完全な意味で人間である。その神性と人性は互いに分離されているのでも、混合されているのでもない 」というキリスト論の有名な教義決定がなされたのでした。

 無原罪の御宿りの教義は、1854年、ピウス9世によって決定されました。無原罪の御宿りということは、よく誤って理解されるように、聖母が無原罪でイエスを宿したということではなく、マリア自身がその母アンナの胎に宿ったその始めから原罪の汚れを免れていたということです。中世においては、マリアがどの時点で原罪から洗われたかについていろいろの意見がありました。マリアに対する崇敬の念の深いことで知られるクレルヴォーのベルナルドは、19世紀に決定された教義とは違う意見だったということです。しかし教義決定されたことでこの論争には決着がついたのです。この教義が決定されたことによって、神の選びの決定は神の恵みによることであり、すべてに先立って行われたのであることがはっきりと示されました。

 聖母マリアの被昇天の教義は、1950年、ピウス12世によって決定されました。この教義も、無原罪の御宿りと同様、聖書には何も述べられていません。伝承も非常にあいまいです。マリアに対する敬虔な信心から生まれた教義であると言うことができましょう。8月15日の祝日については、5世紀の中頃に、エルサレムでこの日に「 神の母なるマリア 」の祝日が祝われていたことが知られています。その後この祝日は全東方教会に広がり、マリアの帰天の祝日として祝われるようになり、その形で7世紀に西方教会に伝えられ、12世紀には被昇天の祝日として祝われるようになりました。19世紀以来、この信心を教義として決定して欲しいという要望が各地からローマに寄せられました。これに対しては神学者から疑義が出されましたが、ピウス12世は世界中の司教に教義を決定することの是非についてのアンケートを行った末に、教義決定を下したのでした。

 このことについては私自身一つの苦い思い出があります。当時、私は東京の高円寺教会に属していましたが、1950年のある日曜日、主任司祭の野口神父様(後の広島教区長)がミサの中で、「 今度ローマの教皇様は被昇天の教義を決定しようとされており、それについて全信者の意見を聞きたいと言っておられます。教義の決定に反対の人は立って反対の意思を示してください 」と言われたのでした。私は、当時は神学者の疑義については何も知らなかったのですが、それでもとんでもないことと、立って反対の意志を示そうと思ったのですが、周りを見回すと誰も立つような気配がありません。どうしようかと迷っている間に、神父様はにこにことして、「 はい、わかりました。ローマには皆さん賛成と報告いたします 」と言って終わりになってしまいました。自分の考えをはっきりと表明できなかったことに対する慙愧の念は、今だに私のなかにくすぶっております。

 ピウス12世は、教義の決定にあたり、神学者たちの反対も考慮に入れて、教義決定の目的を、全能の神とその御子を讃え、神の母マリアの栄光を讃め歌うためであるとし、この教義の典礼的な意味合いを強調しています。この教義は他の教義のように、教会の教えについて疑いが生じたために、それについて教会が決定を下すというのとは少し違う意味合いを持ったものであるのです。ちなみに、トマス・アクイナスは、福音史家ヨハネも同様の栄光を受けているという考えを述べており、ラツィンガーは、全ての信者は洗礼によって原罪から洗われているのであり、終末においては全ての人は身体と霊において復活するのであるから、マリアの被昇天はその先取りに過ぎないと言っています。

 1850年から1950年まではマリアの世紀と言われています。この時代には、「 マリアに関して、神にできることは、すべてを神はなされた 」の標語の下に全ては進められたと言われています。ヨハネ23世は、第2ヴァティカン公会議を始める前に、今回の公会議では新しい教義は決定しない旨を明らかにされました。公会議後は、マリアは教会論的に理解されるようになったと言われます。 マリアは私たちの信仰の姉妹であり、信仰の疑いも悩みも知らない人間ではなかったのです。その疑いと悩みにも拘らず、マリアは神に向かって、「 み言葉のように私になりますように(ルカ1:38) 」と答え、そのように彼女の一生を生きたのです。私たちはマリアに祈るのではなく、マリアが私たちとともに神に祈ってくれるのです。ルルドへ行くと、教会の前の大広場の中央に大きな柱が立っており、その上にマリア像が立っています。しかしよく見ると、マリアはそこに集まる信者たちと同じように教会に向かって立っており、皆と一緒にそこで行われるミサの秘儀にあずかっているのです。マリアは私たちの中にあって、私たちと一緒に祈っているのです。