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神学生便り ~小道を歩けば~

プチ・フォワイエ

神学生便り
~小道を歩けば~
倉田 厚

 

 ばたばたとしていたら、もう夏が来て、夏休みになってしまいました。この夏公開になる映画の試写会にいったので紹介させていただきます。 この夏公開される「 マザー・テレサ 」のキリスト教関係者試写会に行ってきました。そういえば神学生というのはキリスト教関係者なのですね。自分のことながらなんだか不思議でした。千葉では京成ローザで上映されます。

 さて、それほど映画を見ることがない私ですが、たまに見ると、小うるさい事を言いたがる方なのです。しかし、この映画はシンプルにまとまっていてとても好印象を受けました。

 マザー・テレサは、その生涯において信仰のうちに、自分のいのちを父なる神からいただいたものとして、それを御旨にしたがって生き抜いた。それ以上でもそれ以下でもないはずです。どちらであっても、無理をきたすし、十全にいのちを活かしきれない。

 この映画の様々なシーンに、マザー・テレサが生かされた「 珠玉のことば 」がちりばめられています。「 神がお望みになるならば与えられる 」「 大海の一滴 」などなど。

信仰における謙虚さと、信仰における大胆さ。そしてそれを支えるものは、主に対する信頼。

わたしをこの世へ望んだ主。
わたしを今生かしている主。
わたしをお使いくださる主。
わたしが生きる道である主。…。

 神さまに対するイメージを言語化してみると、簡単に一口では言い切れないことに気がつきます。ただ一つだけ明快なことは、わたしと主の一対一の関係を育みたいと願っているのだということです。

 スクリーンの中でマザー・テレサは、「 わたしのしたいこと 」とわがままにもとれるような発言をしていました。しかし、その実は、「 神さまがわたしに望んでいるとわたしが感じたこと 」を生きたいと願っていた。

 わたしといういのちが、自由に生きるのは、完全な善、喜び、福音である、神の望みとわたしの望みが一致しているときではないでしょうか? 自覚をしていても、無自覚であっても、やはり自由に生きることが一番の宣教になります。それは教会の中でも、社会の中でも、家庭の中でも、一番大切なことだと思います。

このてくむが皆さんの手元に届く頃、世界中からたくさんの青年がケルンに集まります。青年たちが、キリストにおける自由ないのちを知る機会となるよう、力強くお祈りください。

 世の中どんなに辛いことも、相手への愛があれば、喜びになる。他人の子 のことは多少のことでも億劫だが、自分の子のこととなれば、どんな無理難 題でも親は喜んでやる。我が子への愛があるからだ。

 それと同じに、キリストに従うとき、私たちは心の深みから根本的に新た にされ、神様の愛の新しい心が与えられる。キリストの律法は重荷ではなく 、私たちの喜びとなる愛の律法である。その愛ゆえに軛は、私たちに何事に も囚われない自由を、自分にもこだわらない真の自由をもたらす。律法は喜びであり、イエス様が与える軛、律法は負いやすく、軽やかな喜びの歌になるのである。

 キリスト信者になるとは、真実の意味で、罪の鎖から解放され、心が軽くなることである。「 心が軽くなる 」とは、何事にも囚われない自由を、自分のものとするからである。

 私たちが人生の離岸流にしばしば出くわす時、流れに逆らって、自分の力を過信し、必死にもがき、力尽きることのないようにしたい。神様の恵みの 流れに乗り、主イエスの愛で人生の軛を軽やかにしていただこう。