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三位一体について

プチ・フォワイエ

三位一体について
四街道地域 里野 泰昭

 

 ドイツでは復活祭にいちどきに春が来ると言われています。それまで暗い雲に閉ざされていた空が明るい光に輝き、凍てついていた地面にはあらゆる花が一斉に咲き始めます。やがて木々が芽を吹き、世界は新緑に覆われ、その装いを新たにします。

 そうなるとやがて聖霊降臨祭です。この時期は1年中で一番うれしい季節であると思います。特に私がドイツに行った当時は、昇天祭から聖霊降臨祭までの10日間は大学も休みであったので、光に満たされたうれしい季節の記憶があります。

 それでもまだ足りないかのように、聖霊降臨の次の主日は三位一体の祝日、その次の主日は聖体の祝日、その次の金曜日はみ心の祝日と祝日が続きます。特に聖体の祝日には以前は聖体行列が行われていました。これはカトリックの地方の民衆の生活に溶け込んだ習慣で、初夏の風物詩の1つとして文学作品にも好んで取り上げられたものです。 しかし、第2ヴァティカン公会議は、聖体を崇敬の対象として人々に顕示するのではなく、聖体を食べることにより主と1つになることに意味があるのだという考えから聖体行列や聖体降福式を制限することを決定しました。 ミサに集まった共同体の中でキリストの体である1つのパンに皆があずかることにより、皆がキリストにおいて1つのものとなり、キリストの体である教会を現わすというのが、聖書的な考えであり、古代の教会から伝えられて来た信仰です。聖体行列や聖体降福式におけるような、聖体を崇敬の対象として顕示し、これへの崇敬を表わすというのは中世において初めて出てきた信心の習慣で、本来のものではなかったのです。

 ところで今日は三位一体の祝日にちなんで三位一体について少し考えてみたいと思います。

 三位一体というと何かむづかしいことで、一般の信者にはとてもわからないことであり、そのわからないことを目をつぶって信じるのが望まれる信仰のあり方であるというような理解が一般にあるのではないかと思われます。しかしそうではないのです。

 有名なカトリックの神学者であるカール・ラーナーは、信者が三位一体の神秘を理解しようとせず、ただ有り難いお題目のように受け入れていることを非常に残念なことであると言っています。 三位一体とは、父と子と聖霊はそれぞれに3つのペルソナにおいて神であるが、3つの神ではなく、1つの神であるということなのですが、議論の始まりは

イエス・キリストは神である

ということから始まったので、そこから考えてみたいと思います。

 キリストが神であるとすると、父なる神と子なる神(キリスト)と神が2人いるということになってしまいます。しかし神は1つです。この矛盾をどう解決するのかということが問題でした。その解決のためにいろいろの考えが出されましたが、その代表的なものを2つだけ紹介したいと思います。 1つは従属説という考えです。この説によれば、子は父に従属することにおいて両者は1つであるというのです。 確かに、子は

父のみ心を行なうために来た

のですから、聖書的な意味で子は父に従属すると言えなくもないのですが、普通の理解では、従属するのであれば神に上下2人の神があるということになってしまう点が難点です。 もう1つは様態説と呼ばれます。唯一の神はその時々で、父のお面、子のお面、聖霊のお面をつけて現われるというのです。古代のギリシア演劇では日本の能のように役者は面をつけて演技をしたのです。この節は、神がいろいろの様態で現われるという意味で様態説と名付けられました。この説は父と子と聖霊が1つの神であることをわかりやすく説明してくれ、なかなかよいように見えるのですが、異端として拒けられてしまいました。何故でしょう。 父と子と面は変わっても、その面の後にいる行為の主体が同じ神では、子が「 父のみ心を行うために来た 」と言っても、それは神の1人芝居に過ぎないものになってしまうからです。

 父と子はそれぞれに独立した主体でなくてはならないのです。従属説の方は、父と子を別の主体と考えており、その限りにおいて正しいと言わなくてはなりません。

 結局、面の後に面とは別の主体がいるのではなく、面そのものが主体であり、唯一の神の現われであるという形で両者の総合が試みられ、解決が求められました。その結果、1人の神が面をつけて外に向かって3様に現われるのではなく、父と子がそれぞれに自立した主体として面と面と向き合って相対することにおいて1つの神として現われるという理解が得られることができました。

 この互いに面と面と向き合って相対する自立した主体のことをペルソナと呼ぶようになりました。

 父と子はそれぞれに自立した別の主体、ペルソナでありながら、同じ1つの神であるという理解が成立したのです。

 イエスが父に向かって

私の思いではなく、あなたのみ心が行われますように

と祈り、十字架の極限にまで自らを父に捧げるとき、1人の人間イエスにおいて神が私たちに現わされます。そこに現われる神は、父に対し面と面と向き合って相対する子なる神ですが、それと共に、子なる神イエスを通して、その眼差しの先にイエスの父なる神が私たちに現わされて来るのです。

 そしてイエスにおいて現われる子なる神と、イエスを通して現わされる父なる神は同じ1つの神なのです。

 その神は子において完全な神であり、父において完全な神であり、両者において同じ1つの神なのです。

 このイエスの父なる神への道は、子を通してでなくては私たちに開かれることはありません。

いまだかつて神を見た者はいない。父のもとにいる独り子である神、この方が神を示したのである。(ヨハ 1:18)

父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません(マタ 11:27)

 父は子を通してのみ私たちに現わされるのです。しかし、イエスを子として私たちに示すのは父です。

 その父は子を通してのみ知られるとしたら、誰がイエスを神の独り子として私たちに示してくれるのでしょうか。

 それを私たちに示してくれるのは神のうちなる愛である聖霊をおいて誰でありましょう。

 神学者は

三位一体の神のうちなる内的な愛の交流

について語っています。三位一体の神は単なる単一の唯一の神より豊かな神であり、私たちの長兄、人間イエスを通して私たち人間を巻き込んだ人間的な神なのです。

 三位一体とは単に3が1ということではありません。3が1ということのうちに三位一体の神秘があるのではありません。1人の人間であるイエスが神であり、イエスを通して初めて父なる神に至ることができるということ、そしてその道を私たちに開いてくれるのが聖霊であるということが三位一体の神秘なのです。教会の典礼は私たちに、

聖霊のうちに、私たちの主、イエス・キリストを通して、父なる神に

祈ることを教えています。