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復活祭から聖霊降臨まで

プチ・フォワイエ

復活祭から聖霊降臨まで
四街道地域 里野 泰昭

 

 復活祭から50日間は復活祭の季節ということになっており、この間の主日は復活節の主日として祝われます。50日目は主日にあたっており、聖霊降臨の祝日です。その10日前、復活祭から40日目の木曜日が主の昇天の祝日になりますが、現在ではその次の日曜日に昇天祭が祝われることになっています。この日数の計算は使徒行伝(使徒言行録)の記述によっています。使徒行伝では、キリストは復活の後40日間使徒たちに現われ、一緒に食事をし、神の国について語り、天に昇ったとされています。また50日目に聖霊が降ったことを記しているのも使徒行伝です。

 しかしこの日数の計算は使徒行伝に特有の神学的な立場から述べられているので、必ずしも出来事の歴史的な日にちを述べているものではありません。昇天の40日という日数は、四旬節の40と同様、一つの区切りとなる時間を現わしていると考えられます。聖霊降臨の50日も同様です。50日とは7週プラス1日で、完全数です。イエスの受難の後ユダヤ人たちを恐れて家の中に引きこもっていた弟子たちは、聖霊を受けて人々の前でイエスの福音を宣べ伝え始めたのでした。聖霊降臨は教会の生まれた誕生日であったのです。使徒行伝は、家の中に引きこもりながらも復活のイエスに出会うことによって心の慰めを得ていた時代と、聖霊降臨によって世界の中に飛び出していった教会の時代とを、この日数計算によって区別しようとしたのだと思われます。

 復活祭はユダヤ教の過越しの祭りから来たものであることはよく知られています。過越しの祭りはエジプトでの隷属の状態からのモーゼによる解放を記念するものですが、新しい過越しの祭りは罪への隷属の状態からのキリストによる解放の記念です。また、イエスの十字架の犠牲は過越しの祭りの犠牲の子羊になぞらえます。最後の晩餐とその記念であるミサの聖餐式は新約の過越しの食事です。

 過越しの祭りから50日目の五旬祭(ペンテコステ)は過越しの祭りと並んで重要なユダヤ教の祭りでしたが、これもキリスト教によって受け入れられました。五旬祭はモーゼがシナイで律法を受け、イスラエルが神の民として神との契約を結んだ記念の日であると言われています。この日に教会は聖霊降臨によって聖霊を受け、キリストの教会として新たに生まれたのです。 使徒行伝は復活から40日目にイエスが昇天したことを伝えていますが、使徒行伝の著者と同一人物によると考えれているルカ福音書でさえ、40日間の主の出現について触れていません。素直に読むかぎり、ルカはイエスが復活後2~3回現われたのち間もなく昇天したと考えているように思われます。マタイもヨハネも昇天について語っていません。その代わり、マタイでは、復活後ガリラヤの山の上で弟子たちに現われるイエスは権威に満ちており、殆ど昇天を思わせるような姿で描かれています。マルコは空の墓での天使の出現に婦人たちが震え上がってしまったところで筆を措いているので、出現についても昇天についても語っていません。

 新約聖書には福音書のほかにも復活のイエスについて語っている箇所があります。そこでは復活ではなく高挙について語られています。それは非常に古い讃歌の形で伝えられてきたもので、パウロの手紙の中に見いだすことができます。それはフィリピ人への手紙の2章6~11節、テモテへの第一の手紙1章16節などですが、そこでは

キリストは高く挙げられた(フィリピ2:9)

という表現が使われています。高挙というのは、神の次元に引き上げられ受け入れられたということです。 復活は肉体の生命に死んで、神の生命に生きるということです。そうすると、復活と高挙は同じことの2つの異なった表現であるということにはならないでしょうか。また、昇天は高挙の神学的な内容を視覚的に表現したものと言えましょう。マタイの箇所では復活と高挙のモチーフが一つに融合していると言えないでしょうか。そこでは昇天について述べられていないとしても、内容的には同じことが語られていると言えましょう。

 ヨハネ福音書では十字架と高挙、復活と聖霊降臨が一つのものとして捉えられていると言われます。ヨハネでは昇天については何も語られていませんが、十字架につけられることが

地上から挙げられる(12章32節)

と表現されており、十字架と高挙(昇天)とが一つのこととして述べられていると考えられます。また、復活して弟子たちに現われたイエスが、その場所で弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を与えている(20章22節)ので、十字架と復活(昇天)、そして聖霊降臨が互いに一つのものに入り組んでいるものとなっています。復活は十字架の死が敗北ではなく、まさに死の力に打ち勝ったことの神による保証であり、教会は復活者の息吹による聖霊降臨によって誕生するものです。

 ところで、イエスが昇天したと言うとき、イエスは他の義人たちが昇天したと言われるのと同じ意味で昇天したのでしょうか。ヘノクもエリアも昇天したといわれています。イエスはこの義人たちと同じように昇天したのでしょうか。答えは否です。イエスは昇天する前に冥府(古聖所)へ降りて行き、ノアの方舟に乗り損なった救いの希望のない人たちに福音を宣べ伝えたとペトロの第一の手紙(3章19節)は述べています。イエスはこの人たちを連れて天に凱旋したのです。イエスは単に天に昇ったのではなく、それまで閉ざされていた天の門を開いて、人々を引き連れて天に昇ったのです。イエス以前には天は閉ざされていたのです。イエス以前の旧約の時代の考えでは、人は死んだら冥府、黄泉の国にくだって蔭のような存在を続けると考えられていたのでした。

 同じことは彼の復活についても言えましょう。前回、復活とは地上の生命を超えた終末の究極的な「 いのち 」への復活であると申しました。このことは、イエスがたまたま一人の人間として終末の究極的な「 いのち 」へ復活したということではなく、イエスによって初めて、週末の究極的な「 いのち 」の次元が開かれたのだということを意味しています。イエスは救いの初穂、復活の初穂なのです。