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てくむ 2018年12月号

司祭のお話 てくむ 2018年12月号

主の降誕によせて

 主の降誕おめでとうございます。今年もこの喜びの季節を迎えました。一年の締めくくり、そして新しい年を迎えるこの季節、無事過ごせたことへの感謝と新たな期待に希望をふくらませながら喜びのうちに過ごすことが好ましいのかもしれません。わたしたちの救い主は二千年ほど前にこの世に生まれ、わたしたちに救いを示し実現してくださいました。そしてそれは今も続いています。そして将来必ずこの救いは完成されることでしょう。その確信がありながら、この主の降誕の季節に喜びうかれる気分にならなくなったのはちょっと前からのことでしょうか。
 それは神父にとってクリスマスがただ忙しいだけだからというわけでもありませんし、世の中を見回しても戦争が起こっているからとか、地震や台風など自然災害で多くの人が苦しんでいるからといった理由ではありません。確かにイエスさまの誕生は嬉しい出来事です。でも果たしてイエスさまはこの世に生まれてきて嬉しかったのでしょうか。神なのに、人間の姿、赤ん坊の姿になりさがってこの世に誕生したのです。そしてそこから苦しみの生涯が始まるのです。イエスさまの気持ちを考えるとなんだかうかれる気にもなりませんし、喜べなくなってしまいます。
 でも使徒パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)と言います。イエスさまがこの世に来たのは自分が喜ぶためではなく、わたしたちを喜ばせるためです。わたしたちが喜びの中に生きるためです。だからわたしたちの喜びはイエスさまの願いでもあります。せっかくこの喜びのため、人間となり、十字架の苦しみを受けられたのですから、わたしたちはこの願いを実現しなければなりません。わたしたちは喜ばなければならないのです。そしてその喜びはキリストの苦しみの上に成り立っているものであることも忘れてはならないのです。
 わたしたちが喜ぶ時、必ず他の誰かの苦しみがそこにあります。この苦しみが憎しみや妬みにならないように願います。そのために愛とゆるしをイエスさまは教えてくださいます。すべての苦しみは喜びを与える種であり、愛とゆるしを貫かれたイエスさまの誕生とその生涯はすべての人の救いの種なのです。それを喜ぶ人はうかれるのではなく、心からの感謝と賛美をささげるのでしょう。
 キリストの苦しみのうえに成り立つ喜びの時、何よりも感謝のうちに過ごしたいものです。