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てくむ 2018年7月号

司祭のお話 てくむ 2018年7月号

人間万事塞翁が馬

小林 敬三神父

 テレビをひねると、いつも同じ問題が報道されております。国会の森友問題です。一連の報道を聞いていて、私はあの有名な中国のことわざ『人間万事塞翁が馬』を思い出しました。
 ある、砦の近く、国境の近くに住んでいるお爺さんの話です。朝から「悲しい、悲しい」と言いながら、お酒を呑んでいるお爺さんがいました。そこで近くのお婆さんが出て来て、お爺さんに言うのです。「何でそんなに悲しんでいるの?」。お爺さんは言います。「大事な財産である馬が、昨日隣りの国に逃げてしまった」と。お爺さんにとってみれば、馬は大変な財産です。それがいなくなってしまったのは、大損失です。するとお婆さんは言います。「お爺さん、そんなに悲しむことはない。人生何が幸せか分かりませんよ。これはひょっとして不幸ではなくて、何か幸福の原因かもしれませんよ」と。案の定、数日後、逃げた馬が、新しい恋人の馬を連れて帰ってきました。一晩にして、財産が2倍になったのです。お爺さんは嬉しくて、「祝い酒だ」と朝からお酒を呑み、喜びの声をあげていました。するとあのお婆さんがまた出て来て、「なんでそんなに喜んでいるの?」。「馬が帰ってきた上に、もう一頭連れてきた。大変な財産を得て嬉しい」と、お爺さん。そうするとお婆さんが「そんなに嬉しいことではないかもしれない。人生何が幸せかわかりませんよ。これはひょっとしたら不幸の原因かもしれませんよ」と、言う。たしかにその数日後、お爺さんの息子が、新しく来た馬に乗っていて落馬してしまい、一生半身不随になってしまった。親にとってこんなに悲しいことはない。するとあのお婆さんが出て来て「何が不幸か分からないですよ。ひょっとしたら、これは幸福の原因かもしれませんよ」と、お爺さんを慰めた。数日後、お爺さんの国は隣国と戦争を始める。そして多くの若者が戦争に行って死んでしまう。しかしお爺さんの息子だけが半身不随なので、戦争に行かなくて命が助かった、という話です。
 人間何が幸せか分からない。幸せと思っても、実は不幸の原因かもしれない。不幸と思っても、実は幸せの原因かもしれない。だから幸せでもあまり有頂天になるな、失敗をしてもあまりがっかりするな、落ち込むな、人間は何が幸せか分からないから。長い目で人生を見よ、結論を急ぐなということである。
 森友問題からこの話を、私は連想した。今渦中の人である前理財局長は、聞くところによると、官僚の出世コースのエリートとしてずっと歩んで来たそうだ。局長になったとき、同僚たちに比べて何と自分は幸せだろう、そう思ったに違いない。ところが、国会の証人喚問に出させられ、何時間も過去を追求された。彼は不幸のどん底を味わったのではないか。何が幸せか分からない。私は改めて、テレビの報道をみて思ったのです。「人間万事塞翁が馬」と。
 さて、イエスは仰います。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る』(ヨハネ12.20-33)、そう今日の福音は私達に告げています。十字架上の己れの死のことを「栄光を受ける時」と、あえて主イエスは言われます。人の子イエスは受難の僕で、いけにえの子羊として十字架上で死なれます。死ぬことによって、それを信じるこの世の人々に救いを、そして永遠の命を約束してくださいました。十字架というのは残酷極まること、不幸の極みのことです。しかし皆さん、十字架上のイエスの死があったからこそ、栄えある復活が我々にもたらされた。この事実、この逆説は、先ほどの我々の日常、そして人生の日々の真実と相似形をなしている。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のまま、だが死ねば、多くの実を結ぶ。キリストのもたらされた救い、それはご自分の死と苦しみを通してです。十字架なき復活は無い。「人間万事塞翁が馬」である。