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てくむ 2016年10月号

司祭のお話 てくむ 2016年11月号

死者の月

主任司祭 福島一基

 カトリック教会では11月を死者の月として、特に1日の「諸聖人」の祭日には信仰を生きたすべての聖人を思い起こし、つづく2日は「死者の日」として亡くなったすべての方々を祈念します。この時期、各教会では追悼ミサが行われ、お墓参りをします。日本では一般的に「お盆」や「お彼岸」に家族でお墓参りに行き、お寺のお坊さんは忙しくなるそうです。11月の教会の神父は暇なわけではありませんが、それほど忙しくもありません。なぜなら教会におきましては故人の命日を大切にする習慣のほうが強いからなのかもしれません。普段は教会に来ない人でも、その日は家族全員でミサにあずかっているということもしばしば見受けられます。亡くなった人を大切にする気持ちは、仏教もキリスト教もさほど変わらないように思います。
 カトリック教会が11月を死者に月として定めたのは不明であるようですが、典礼暦の上で最後の月になることからも結びつけることができるのかもしれません。一年で最後の月に、人生最後の時である死を思い起こすといったところなのでしょうか。たしかにこの時期に主日ミサで読まれる福音も、この世の終わりに向けてのみことばが語られます。それは苦難の予告ではありますが、救いへの希望となるものでもあります。
 もちろん死も、救いへの希望と結びつくものです。イエスさまが十字架上で死を体験されたからこそ、復活というわたしたちの信仰の核心があります。死がなければ復活はありません。また死がなければ命もありません。わたしたちは命あって生きているのですが、命があるからこそ死を体験しなければなりませんし、またこの世で死なないものは命のないものです。生と死は強く結びついており、わたしたちの命の神秘がそこにあります。
 命の誕生も神秘ですが、この世の命の終わりである死も神秘です。両方とも人間の意志で選んではいけないものだからでしょうか。誰も自分で自分の命を選ぶことができないように、死も自分で選ぶことはできません。ただ人間は神から与えられた命を生き、そして神が与えられる時が来たら死を受け入れるしかありません。すべての人間が神に造られているという根拠はここにあります。そしてすべて人間は神のみ心のうちに生きるように呼びかけられ、その中で死が与えられるのです。死は神のわざです。それはどのような死であってもです。このように考えることができるのも、キリストが悲惨な十字架の上で死を体験してくださったからなのです。たとえ罪人として不名誉な死に追いやられたとしても神のみ心として死を受け入れるのであれば、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と言われることでしょう。
 わたしたちはミサにおいて、いつもキリストの死と復活を記念します。特に後半の感謝の典礼は、ご存じのようにキリストの死の直前、弟子たちと過ごした最後の晩餐を行います。ここでキリストは自らのいのちと死の神秘を弟子たちに教えました。このキリストのいのちと死は、神の愛をあかしするものであり、すべての人の救いをもたらすものなのです。ミサを通してわたしたちは、キリスト者として神の愛のうちに生きることができます。そして人生最後の葬儀においては、このミサを通して救いに結ばれます。
 カトリック教会の葬儀は、他の宗教の葬儀と比べるわけではありませんが、一番だと思っています。非常におだやかで優しさに満ちあふれているからでしょうか。何よりもミサを行うことによって、死の悲しみよりもいのちへの感謝を表すものだからです。初めて教会の儀式に参加された方からも好評です。また教会の葬儀を通して信仰に招かれる人もかなりいらっしゃいます。昨年わたしの入門講座に出席されていた方の数名は、そのような方々でした。
 死者の月にあたり、何よりも今年帰天された方々を思い起こしたいと思います。先に死を迎えた方々のように、わたしも死を受け入れることができますように。また死までの人生を、誠実に生きることができますように。最後は神父として死ぬことができますように。