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てくむ 2015年11月号

司祭のお話 てくむ 2015年11月号

宗教とご利益

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 先日クルマを運転していると、警察官に呼び止められた。言われるまま免許証を手渡すと、そこに私の住所が<カトリック西千葉教会>とあるのを見て、警官は言った。「あんた、キリスト?」。私はビックリした。
 「とんでもない! 私はキリストではありません!」。
 会話の途中で、ああ、そうだ。きっと「キリストか?」と聞く意味はキリスト関係者か、あるいはキリスト信者か、ということなんだろう。私は2千年前の救い主とまちがえられたのかと思って、ビックリしてから言った。 「ああ、やっぱりキリストです」。するとその警察官は言った。「私のいとこもキリストやってるよ」。
 日本では「宗教をやる」という言葉がある。「あのおばあちゃんは、近くのお稲荷さんをやってるよ」という時には、お稲荷さんを信仰していて、特別ご利益を得ている(商売繁盛とか)、ということだろう。

 イエスさまはある時仰った。
 「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マルコ10・6-9)
 
 イエスさまはハッキリ弟子たちに、夫婦たる者、離縁してはいけませんよ。ということを仰っている。ところが、いまの世の中を省みると離婚が多い。特に芸能関係の世界では、安易に結びついたり離れたり。そういう傾向があるのではないか。
 結婚、それはそもそも一生一度の決断である。神さまから人間は、特別に<ペルソナ>、人格という尊い道徳的判断を下す能力を、与えられた。そして人間が男女の二つの性に創造され、ひと組の男と女が相手に対してお互いに「夫とします」「妻とします」、そう神の前に誓って、一体となるのが結婚であり、本来とても厳粛なものであり、神聖なものであり、重いものだった。
 そして結婚生活の目指すもの、それは子どもを産み、子どもを教育し、また夫婦ふたりが助け合い、時には忍耐し、お互いの人格の完成を目指した。
 それは神の結び合わせたものであり、人間は自分勝手な考えや一時の感情で、離婚してはいけない、ということだ。神さまが司祭を通して、その結びつきを祝福されたのであり、神が結び合わせたものを人は離してはいけない。つまり、結婚とは不解消のものであるという原則になる。
 ところが、私たちの夫婦生活、家庭生活は、必ずしも順風満帆というわけには毎日行かないのが現実だ。そして時には、第三者には簡単には理解できない、複雑な理由で、やむを得ず離婚にいたる場合もある。そして、いまはふさわしい理由があれば、必要な手続きをすれば、婚姻関係を教会は一定の条件のもとに解消することができる。教会はあくまでも、弱い者の味方なのだから。
 原則は変えられないが、時と場合により、それを解消することがあり得る。言わば、原則は原則としながら、幅の大切さ。それを教会は、心得ている。
 キリスト教はいわゆるご利益宗教ではないが、私は実は最もすごいご利益宗教、それがキリスト教と思える。
 なぜなら、キリストを救い主として信じる者には、神の国が、天国が、保証されるから。こんな大きなご利益はまたとない。
 そしてこの神の国の建設、天国を築くことに携わる者に最大の特徴、それは、人間としての幅、あるいは柔軟性だ。
 教会はひとつの文言に固執する、教条主義の世界ではない。私たちは互いに神の国を建設する者の一員として、お互いに人間としての幅をひろめ、柔軟性を深めながら歩んでいきたい。