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てくむ 2015年8月号

司祭のお話 てくむ 2015年8月号

ガリラヤ湖のように生きる

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 緑あざやか、初夏の箱根に研修会で行って来た。
 いま火山噴火の警報が出ている箱根は、大自然に恵まれた国際的観光地。でもつくづく思ったのは、みやげ物屋さんにもバスにも、人っ子一人いず、ひっそり寂れていることだった。
 芦ノ湖に足をのばすと、遊覧船が水面を走っていた。何百人と乗れる船なのに、全く人影が見えない。乗客がなくても定期的に運行しなければならないし、従業員に給料を払わなければいけない。いつ収束するか分からず、これでは会社は干上がってしまうだろう。
 さて、緑に囲まれたきれいな芦ノ湖を見て、私は神父なので、すぐ聖書のガリラヤ湖を思い出した。ご存知のとおりガリラヤ湖にはたくさん魚がいて、それを捕って生業(なりわい)としていたのが、イエスの多くの弟子たちだった。
 私もかってガリラヤ湖を訪れたことがある。おそらく湖の共通の特徴だろう。周囲から水が流れ込み、そしてその水はヨルダン川を通って下流に流れているので、湖水がいつも澄んでいることを感じた。淀んでなく、だからたくさんの魚が生きていられた。
 一方、流れ出た水はヨルダン川を通して、100キロ離れた死海に流れ込む。ガリラヤ湖と死海のちがい。二つとも外から見ると美しい湖だ。ところが決定的にちがう特徴が、この二つの湖を見て言える。
 それは、魚がたくさん棲んでいるガリラヤ湖に比べて、死海には魚が一匹も棲んでいない。生き物がいない。なぜなら死海は岩塩が底にあって、それが溶け出して蒸発するため塩分が濃い。だから水が流れ込んでも、あふれないで蒸発し、水位がいつもおなじになる。塩分が濃すぎて、魚一匹いないから「死んだ海」と呼ばれるのである。
 さて、この二つの湖のあり方は、一体私たちになにを語っているのだろう。なにか救いの出来事を私たちに述べているのではないか、そう私は考えた。私個人に主イエスの救いの業が実現した過程をたどってみると、洗礼を受ける前、キリストに出会う前の私はエゴイストの塊。いつも自分中心にしか考えない、身勝手な自分を思い起こすことができる。これが救われざる、罪人(つみびと)の一つの現実だ。人間は誰でも罪人だから、エゴイストで、みんな身勝手だ。みんな自分がよければいい。自分がかわいい。そう思ってしまうのが人間の現実だ。
 それが聖書を通してキリストに出会い、主イエスを通して神さまのお恵みが豊かに注がれ、洗礼を受け、そして自分ではなく人を愛していく。その生き方こそ、救われた者、キリストに出会った者、神の救いの業に与かった者であり、当然なのである。
 ご聖体を戴くことを通して、恵みが豊かに一層そそがれ、私の考えが、私の日常の行動が、キリスト化される。キリストに似た者とされる。
 それはちょうど、昔の自分、救われざる自分の過去の姿を見てみると、言わば死海的人間、溜め込む一方で、与えることを知らない人間だったことを思い起こす。
 一方、ガリラヤ湖的な人間とは、なんだろう。それは、あの湖は他から流れ入ったものを流し出す。ちょうど洗礼を受けることによって神の恵みをいっそう豊かに受けることにより、私たち自身が変えられていくのと似ている。
 イエスは父である神の愛をたくさん受けて生きられた。しかしそれで留まらず、私たちの罪の贖いのために、十字架の上でご自分の命すら与え、与え尽くして下さった。それは私たちが、神さまの命に一層豊かに与かって生きて行くためだった。
 私たちもとかく日常、いかに人から与えられるか、ばかり考えがちだ。そうでなく、与えることの深い意味、その大切さを、イエスの十字架の贖いに思いをいたし、そしてそれを私たち自らが日々の生活で、実行できますように、努めたい。
 イエスさまのみ言葉は新約聖書の福音書にすべて載っている。ところが、ただひとつ福音書に載っていないみ言葉が使徒言行録にある。
 「与えられるより、与える方が幸いである」(使徒20・35)
 人からいかに理解されるか、人からいかに愛されるか、ばかりを考えがちな私たち。
 そうでなく、人を愛する。人を理解する。人をなぐさめる。人を赦す。そこに、私たちは救いが見出されることをあらためて思いたい。