トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2015年6月号

司祭のお話 てくむ 2015年7月号

私たちの人生と断念

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 梅雨に入り、湿気も強くなる季節になり、お互いに身体に気をつけたい。
 先日、私がスーパーに行くと、若いママが4歳ほどの小さな女のコを連れて買い物をしていた。子どもは棚に並んでいる一つのお菓子がほしくてママに訴えていた。ママが「いけない」と言うと、泣き出してしまった。すると、なんとその母親は棚からそのお菓子を取って、包み紙をむいて、子どもに与えはじめた。たまたまそこを通りかかった店の従業員がそれをとがめると母親は、「あとで支払うからいいじゃないの」と言っていた。
 私はこの光景を見て、この子の将来はどうなるだろうという不安を感じた。
 なぜなら子どもがお菓子がほしくて泣き出すのはいい。問題は母親だ。物事を長い目で見ないで、目の前の問題を安易に解決しようとしているからだ。子どもに、いまは我慢すること、断念すること。それを教える絶好の機会なのに、そうしなかった。そして、それが実は次の問題の種になっていることを、この母親はわかっていない。
 私たちの人生はそもそも、がまんだらけ、忍耐だらけだ。それなのに、この子どもを我慢できない人間、断念することを知らない人間に母親は育ててしまっている。お菓子がほしいと泣く子どもに、すぐその場で与えてしまう。これがやがてこの子どもが将来他人に、どれだけ迷惑を及ぼすか。考えてないと危惧した。
 戦後日本は、かなり特色のある教育を施してきた。子どもたちは物事をよく覚える人間だ。しかしこの母親のように、長い目で見ずに、目の前の問題を安易に解決する人間をつくってしまったのも事実ではないだろうか。長い目で見て、いま何を断念すべきかを教えることが大切なのに。
 戦後私たちは、食糧難を体験した。みんな飲まず食わずのすれすれの状態をかろうじて生きてきた。そのたびに我々はいつの間にか大きな錯覚の中に、生きるようになったのではないだろうか。すなわち、物を獲得すれば獲得するほど、人間は自由になれるという錯覚だ。しかし人間はそう簡単ではない。

 キリストはいかに物を多く獲得したかではなくて、いかに物事を断念するかによって自由は完成されると仰った。
 『「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」
 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」』(マタイ19・16−21)

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19〜)というイエスの招きに応え、シモンはすぐ網を捨て、ヤコブとヨハネもすぐ舟と父とを残して、イエスに従って行った。
 イエスさまは、この世の物に対しての断念の必要を語ったのである。

 「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言った者に対してイエスは「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9・61ー62)。そう仰って、いままでの生活への未練の断念を強く要求なさった。 
 イエスさまは、ご自分が真理そのものであり、真理はあなたがたを自由にするであろうと仰った。つまり、真の自由を獲得するために、まずすべてを断念することを私たちに要求されたのである。
 生きるとは日々選ぶことの連続だ。そしてひとたび選んだなら、他を潔く断念しなければならない。神の国の建設に勤(いそ)しんでいる私たちにとり、神の国の建設のため最も基本的なことは、この「断念」であることを心にとめたい。一方を選んだなら、他は潔く断念しなければならないのである。