トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2015年6月号

司祭のお話 てくむ 2015年6月号

本当の愛に生きなさい

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 子どもたちの初聖体を迎え、ふと40年も昔のことを思い出した。
 私が最初に赴任した、東京中野区江古田の徳田教会でのことだった。司祭の重要な仕事の一つに、教会に来られない病人やご老人のために、ご聖体をお持ちすることである。当時教会付近は、病院が多く建てられていて、結核その他ご病人のため、ご聖体をお持ちすることは頻繁に行わなけらばならない仕事だった。当時主任司祭の私と、助任司祭の岩子神父様の二人で分担して30ヶ所くらい、月に2度、すべての方に行き渡るようにしていた。
 ただ一人例外で、毎週水曜日午後3時に持っていくことになっていた。ご本人がとても望むからだった。ところが助任司祭の岩子神父様が他の教会に転任することになった。従って、その一人の入院患者のために、いままで月に2回行けたのが、そうでもなくなってしまうことに気づいた。
 「よし、合理化しよう」
 いままで自分にとって一心不乱だった、あの方へお持ちするのを月一回にしよう。つまり彼女にとっては、いままで月四回ご聖体を持ってこられたのが、たった一回に減ってしまうわけだ。しかしこの合理化案を持って私は、彼女のいる病院に行った。この方は結核で、もう30年40年入院している方、55歳の当時、目方が29キロ。結核がこじれているので、治る見込みもなく、まさに風が吹けばたちまち、飛ばされ、消え入りそうな、細身の方だった。
 さて、月に一回の合理化案を持って、ベッドにいる彼女に向かって言おうとした時、彼女のその、ものすごい真剣なまなざしに圧倒されてしまった。
 「もうご聖体しか、自分にはこの世に頼れるものはない。支えがない。」
 そういう感じの表情だった。その表情を見た時、私は、こういうイエスさまの声を聞いたような気がした。

 「小林神父よ、おまえは世の中の人とおなじ考え方をしていないか。おまえは教会で、この度ひとりになる。それで多忙になる。という理由で、この方にとり大事なご聖体を、月一回に合理化しようとしている。だがな、おまえは司祭だろ。この方はこんなにまで私の来るのを待っているんだよ。もしそうならば、毎週1時間だけではない、一回のために6時間かかっても、12時間かかっても、また食事を一度や二度ぬいても、彼女のために私を持ってくるべきではないか。それが司祭ではないか。世の中の人と、おなじ服装をしていても、根本のところでおなじ考え方をしていたら、司祭になんの意味があるのか。
 おまえは、あのよい羊飼いの話を知っているだろう。99匹をおいても、迷った1匹をたずねて、求めて探しに行ったあの羊飼いを。  これがもし世の中だったらどうだろう。迷った1匹をまずおいて、99匹を安全な牧場に連れていくだろう。それが、理にかなったことだからだ。
 だがな、私にはそれができない。なぜならば迷ったあの1匹は、他の1匹とは違うのだ。そうとうボンクラでないと、迷うはずがないのだ。あの羊はな、他の羊たちに比べ、そうとう弱く、劣った羊だ。
 でもよい羊飼いである私は、その1匹を求め、自ら傷つきながら探し求めた」
 「この方は風が吹けばたちまち飛ばされ、いまにも消え失せるような、細身の方。ただ死を待つのみだ。そう言ってはなんだが、世間的常識から見たら、なんの価値もないかも知れない。しかしだからこそ、おまえはこの方に全精力を傾けるべきではないか。
 小林神父よ、おまえはな、自ら傷つかずに人を愛そうとしている。自ら傷つかずに、傷つかない範囲内で人を愛そうと思っている。  だが、本当の愛とは、自ら傷つくことだ。自ら傷つかずに、人を愛そうなんてきれいごとだ。あの、よい羊飼いを思い出しなさい。迷った1匹を探し求めて、イバラの中で傷ついたのだ。
 また、私自身を見なさい。十字架上で、やりで刺し貫かれ、命まで傷ついたのだ。いいか、しかも黙ってでだ。本当の愛とは自ら傷つくことだ。しかも黙って、静かに。そして相手に気づかれずに、そしてなにも報いを受けずに、自ら傷つき、やがて消えていくことだ。本当の愛とは、理屈を越えているのだ。
 かつておまえは、『我に従え』という言葉に従った。このような厳しい、本当の愛に生きなさい。そのため黙って、毎週、私の身体をこの方に持って行きなさい」
 夕暮れの道をとぼとぼと歩きながら、「はい!」と言いながら、教会に戻って来た。