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てくむ 2015年5月号

司祭のお話 てくむ 2015年5月号

共に歩いて下さる方

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 心地よい春の気候になった。さて、ある日人からもしこんな風に言われたら、どう思うだろうか。「あなたはいつもひとりぼっちだね」。
 「ひとりぼっち」とは、どこか暗く、なにか寂しい感じがする。できることなら、ひとりぼっちは避けたい。とかく人がすぐ群れを作りたがるのは、安心を得たいから、孤立が怖いからではないか。
 ところが最近新聞に30歳の家事手伝いの女性の<ひとりぼっちは、かっこ悪くない>という題の、次のような投書があった。
  「わたしは、独りが好きです。一日中無言で、しゃべらずに過ごしていたいと思うほどです。けれど独りでいると、まわりから『かわいそう』『暗い』『孤独』と、否定的な言葉を浴びせられます。また『さびしい人』というレッテルを貼られてしまいがちです。最近マスコミでこういうことが話題になりました。ひとりで弁当を食べるのが恥ずかしいと、学校の個室のトイレで弁当を食べる学生がいると言う。でも私は、独りがちっとも格好悪いとは思いません。独りでいることは、恥ずかしいことじゃない。むしろ自我の強さを感じます。独りでいられるということは、ありのままでステキです。友だちは一人か二人で十分。その人たちがいなくなれば、ひとりぼっちになるが、孤独とは考えません。独りぼっちだって、かっこいいんです。だから、堂々としていればいいんです」。
 なるほど。改めて独りぼっちで生きていく、その意味合いを考えた。

 イエスさまのご復活後、二人のお弟子さんが都エルサレムからエマオという村に旅をしていた。二人は道中、自分たちが仕えていたイエスさまが十字架上で命を捧げられたのち復活なさった! それでエルサレム中が大騒ぎになっていることを話題にして歩いていると、独りの旅人が近づいて来て二人に聞いた。「なにを話しているんですか」。二人はすぐ答える。都エルサレムで最近起こったこと、すなわち十字架のこと、復活した主イエスの出来事を、力強くしゃべる。
 するとその旅人は二人の弟子と共にずっと一緒に歩き、ついてきながら、旅人に扮した自分こそ実はその復活したイエス・キリストだよ、聖書で預言されていた神の御独子、救い主だよ、十字架上で命を捧げた救い主がいまよみがえって、いまここに、おまえたちと共に歩いてる、その張本人だよと言う。
 ところが二人の弟子は、いくら言われても意味がわからない。いよいよ目指すエマオの村に着いた。そして二人は、この自分たちと共に歩いてきた旅人を泊めるために家に招き入れる。
 そして夕食になった。旅人はおもむろにパンを取り、賛美の祈りを唱える、まさにその時だ。二人の弟子の目が開かれ、そして「あっ」。この方こそ、あの十字架上で死に、三日前に復活されたイエスご自身だ、と気づくのである。ところが、イエスさまは忽然と姿を消す。
 遺された二人はパニックに陥る。エルサレムから歩いてきて疲れ切っているにも関わらず、夜遅くに、早速再びエルサレムに引き返すのである。「とんでもないことが起こった」と、わかったからだ。

 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24・32)

  エルサレムに着いて、いままで起きたことすべてを二人は他の弟子たちに告げる。これが有名な、エマオへの途上の復活された主イエスの出現の出来事である。
 弟子たちが思いもかけずに、復活したイエス様に出会った、この一連の出来事で、私が特に注目する点が一つある。それは二人の弟子がエマオへの道を歩いていた時、「ひとりの旅人が、いつの間にか、近づいてきた。そして彼らに一緒に歩き始められた」。
 これは信仰生活とはどういうことかが、このわずかな一行の言葉に表れているのである。
 キリストの弟子である私たちも、みんな都エルサレムからエマオの村にむかって、それぞれなりの人生街道を歩いているのではないか。その人生街道は寂しいもの。時にはとんでもない、盗賊に襲われるような、そういう痛い目にあう時もある。不安が荒れ狂い、独りぼっちの道のりだ。でも単なる独りぼっちではない。
 エマオへの道で二人の弟子に起きたように、あの復活された主が、いつの間にかいつも歩んで下さる、そういう人生街道だ。
 その道の途上、復活された主といつも語り合い、助けを仰ぎ、励ましの言葉をいただきながら、私たちは人生街道を歩いて行くのである。共に歩いて下さるからこそ、イヤなこと、つらいことの連続の毎日でも、なんとか勇気を出して、力をつくして、乗り越えてゆけるのである。
 新聞のあの投書主は言った。「ひとりぼっちも、かっこ悪くない」。そうだ。なぜなら、イエスさまが一緒にいて下さるから。復活された主がいつも共に歩んで下さるから。いつも私たちに寄り添って、共に歩いて下さるからこそ、ひとりぼっちでもかっこ悪くない。寂しくない。前をしっかり見つめ、堂々と主の復活を讃えながら信仰の道を歩み続けようではないか。