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てくむ 2015年2月号

司祭のお話 てくむ 2015年2月号

「菊と刀」と洗礼者ヨハネ

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 教会のお隣に、大きなマンションがある。ちょうど10年ほど前、私がこの教会に移ってきた頃、時を合わせたかのように建設工事がはじまったマンションだった。最初は新婚さんが多かったのだろう、お子さんがいなくて、段々とそれぞれのご家庭に子供が生まれた。いま、その子たちが大きくなり、小学校や中学校に通っている。だから3時頃になるとみんな学校から帰ってきて、にぎやかに遊んでいる。子どもの大きな声、クルマの音、叱る親の声など、活気のある声が聞こえて来る。
 ところがある時、シーンとしてしまった。人気(ひとけ)がない。しかも何日も。夜も誰も住んでない様子で真っ暗で、明かりが灯らない。それが何日も続いて、どうしたんだろう?そう不気味な感じを受けながら、見ていて、あっ!その理由がわかった。お正月に入ったからだ。みんなそれぞれ、おじいちゃんおばあちゃんのところ、あるいはふだん行かれない遠くの行楽地に行ったのだろう。
 ではなぜいっぺんに、一緒になって行ったのだろう。それが私がお話をしたい点だ。
 昔、ある一冊の本を読んだ。ルース・ベネディクトというアメリカの社会学者が書いた「菊と刀」という本だ。不気味な、静かになったマンションを見ながら、その本のことをパッと思い出した。「菊」とは、天皇制のこと。「刀」とは、古来の武士道のシンボル。日本人の行動様式、あるいは日本人の考え方の根本には、この二つのことが深く関わっているという意味合いのタイトルである。
 この本の背景には、太平洋戦争がある。太平洋戦争が始まった時、アメリカ政府は将来日本に勝った時、どう日本を統治したらいいかを考えるために一人の社会学者をカリフォルニアの日本人収容所に送って、日本人と一緒に生活させた。そして日本人を観察させて、どこに日本人の特徴があるかを調べさせた。統治をより良くするためである。
 その調査の結論は、日本人の特徴は、<恥>に重点をおいて行動するということだった。「ご近所に恥ずかしいからやめなさい」。「武士道にもとる恥になるからしない」。客観的にそれがいいか悪いかではなくて、恥ずかしいから、人の目が気にかかるから。それが日本人の行動様式だというわけだ。
 ということは何事も、人並みにしておけば恥ずかしくない。だから人より突出し、目立つことを嫌い、横並びにしよう。確かに現実の、たとえばサラリーマンの朝出勤する姿を見ていると、大体おなじ色で、おなじような様子の人が多い。人並みに、目立たない、保護色と言ってもいいかもしれない。
 これは悪く言えば、主体性の欠如とか、没個性と言えるかも知れない。なんでも、人並みがいい。あの人が行くから、私も行く。だからマンションの灯りが一斉に消えた理由も、私はそこに目をとめたわけである。もちろん、みんながみんなではなく、1%でもそうでない人がいるかも知れない。

 イエスさまは救い主としての公の生活が始まる前に、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける。ヨハネはいわばイエス・キリストの先駆者、あるいはイエス・キリストを指し示す者、そう言われている。  使命感と気迫のもとに、ひとり立つ洗礼者ヨハネ。その発する言葉は、斬新かつ、自信と力がみなぎっていた。
 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、あの方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 (マルコ1・7-8)
 なぜ、水だけでなく聖霊が加わるのだろう。そう、聖霊は火。火は、相手の材料に対して、見事に質を変えてしまう力がある。そのようなことを言うヨハネゆえ、まわりの人々からなかなか理解されず、その大胆な発言ゆえに、まわりから誤解され、非難され、最後は牢で死ぬ運命にみまわれる。
 しかしヨハネは、どのような状況にあろうと、みんながやるから自分もやる、人が行くから自分も行く、ではない。誰も行かなくても、我ひとり行く。その、気構えと勇気を、私たちはヨハネから学びたい。