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てくむ 2014年10月号

司祭のお話 てくむ 2014年10月号

奥多摩湖の水草

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 数日前奥多摩湖に行ってきた。駐車場にクルマを置いて、湖のほとりに行くと、一本の浮き草が水の中でゆらゆらと揺れていた。それを見て私は、昔のあるひとつのこと、十代の終わりの頃の私を突然思い出した。当時私はカトリックの教えにひかれ、毎週教会に通っていた。キリストの教えはすばらしい、自分の人生を預けるにふさわしいと考えながら、洗礼を受けるとなると、ちょっと待てよ。なにか心にひっかかるものがある。それは、洗礼を受けて信者になったら、いろんな規則や掟に縛りつけられてしまうんじゃないだろうかという危惧、恐れだった。
 例えば、日曜日。仕事で疲れてどうしても起きられないのに、なぜ教会に行かなきゃならないんだろう。寝たい時に寝たい、疲れた時には行かない自由が人間にはある。それを掟や義務でしばられたら、たまったものではない。そういう恐れだった。
 でも、いちかばちか。教えがすばらしいのだから、これは飛び込むほかない。そう思って洗礼を受けた。あれから時が経ち日が過ぎ、信仰生活を送っているうちに、じわじわとわかってきたことがある。それは、真の自由とはなにか、という問題だ。勝手気ままにふるまうことが自由なのか。あるいは、なにかの制限の下にある自由が本当の自由なのか。
 40年前、私は10年間神学校で勉強した。ちょうどその期間の真ん中辺で、あの有名なカトリック教会の歴史的な出来事、第二ヴァチカン公会議が開かれた。公会議でいろんな決定がなされたおかげで、随分私たちの教会の雰囲気も変わったと思う。
 キリストの教えの根本は変わらないけれども、それを受け取る人間の態度はどうあるべきか。教会はどう進むべきか、という意味において、随分教会の根本的な姿勢が変わった。
 神学校もおなじだった。もろに第二ヴァチカン公会議の影響を受けて、中世の神学校から現代の神学校へと、私のいた時代に変わった。中世の神学校のシステムは、ともかく、掟、掟、掟。規則、規則、規則。やたらにベルが鳴って、やたらに鐘が鳴って、次はお祈りをする時間、次は手紙を書いてもいい時間、次は散歩してもいい時間。もう常に、規則、規則、規則だった。
 それが第二ヴァチカン公会議によって、神学生の自主性が尊重されるようになった。ベルが鳴ったから行動するのではない。将来、司祭は教会に派遣されるわけで、教会の司祭館に住んでも、誰もベルを鳴らしてくれない。自分で判断して、自分の責任で食事も仕事も決めなければならない。
 第二ヴァチカン公会議後、神学校のあり方はガラッと変わって、例えば食事のベルすら鳴らなくなった。食事の時間だと思ったら、自分で判断して食堂に来なさい。公会議前は外出には院長の許可を得なければならなかった。公会議以降自主性が尊重され、神学生全員に正面玄関の鍵が渡された。どんなに夜遅く飲んで帰って来ても自由。その代わり自分で責任を持ちなさい、ということだ。
 すると問題が起きた。人間勝手なもので、「規則がジャマだ。自由をくれ」と言っていた神学生たちが、なにもないと空しさを感じて「やっぱり規則がほしい」と言いはじめた。私たち人間の自由は、制限のうちにあるのである。制限があるから逆に自由が満喫できるのだ。
 人間は自由を欲しながら、全き自由そのものには耐えられない存在である。神さまがキリストを通して与えて下さった愛の掟もまったく同じだ。私はかつて洗礼を受ける前悩んだ。神の掟があるからこそ、自由を奪われてしまうのではないだろうか。不自由になってがんじがらめにされてしまうのではないか。でも、そうじゃない。福音は、私たちに自由をもたらす。私たちの信仰生活は、神に近づけば近づくほど、自分へのこだわり、他への執着から解放されて、かえってより自由に近づくのである。
 日常生活を反省してみた時、あいつだけはどうしても許せない。あの人のあの時のあの言葉だけは死ぬまで許せない、という人が何人かいるのではないだろうか。そしてそこに自由をもちこんで、憎み続けることが自由だと錯覚する。それは自由ではなく、ただ憎しみの奴隷になっているだけである。

 弟子の一人がイエスに質問した。「人を何度赦さなければいけませんか」。イエスさまはお答えになった。  「七度の七十倍赦しなさい」(マタイ18・22)  これは、無限に、という意味だ。たえず赦すことによって、憎しみから自由になる。これが私たちの本当の自由の使い方なのである。イエスさまは仰っている。  「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)  真理とは、キリストの言葉。キリストご自身。それは私たちを自由にするのである。

 湖のほとりで浮き草を見ながら考えた。浮き草は風に吹かれてゆらゆら揺れていた。しかし、あの浮き草の茎をずっと下にたどっていくと湖の底の土にうずまって、そこから養分をもらって草は生きている。つまり浮き草の根が土に固定しているからこそ、逆に自由にゆれていられるのである。自由は制限のうちにあったのだ。万が一浮き草の根を断ち切ったなら、風の吹くまま岸に打ち上げられ、太陽の熱にさらされ、やがて干上がって死ぬだろう。奔放な自由の結果が自らの死となるのである。
 神さまを信じることにより、神さまに拘束されるのではない。逆に、真の自由がもたらされるのである。