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てくむ 2014年3月号

司祭のお話 てくむ 2014年6月号

双生児のトマス

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 昔、中国の楚(そ)という国で、大道商人が「どんな盾も突き通す、鋭い矛(ほこ)」と「どんな矛も防ぐ頑丈な盾(たて)」を道行く人に売っていた。それを聞いた客が「じゃあ、あなたの矛で、あなたの盾を突いてみろ」と言って、商人は答えに窮してしまった。このことから、つじつまが合わないことを『矛盾(むじゅん)』と言うようになった。
 科学や学問の世界では、人間の頭脳と理性で真理を探求して矛盾を解決していくが、人間の心の場合は理性では把握できない。私たち人間は矛盾に満ちた存在だからである。聖パウロは、人間の心の矛盾に関して、有名な言葉を述べている。

 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7・19)

 つまり人間は、したい良いことをできないで、いつの間にかしたくないと思っている悪を行うという、この心の矛盾。それを聖パウロは「罪」という表現で、ハッキリと自覚していた。

 十字架で亡くなった私たちの救い主は、三日後によみがえり、ある日弟子たちの集まる鍵のかかった部屋にスーッと入っていらした。そして、「あなたがたに平和があるように」。「聖霊を受けなさい」などと弟子たちに仰って、またスーッと消えた。
 その時、その場にいなかったトマスは、仲間の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、信じなかった。トマスはせせら笑って「あの方の手に釘の跡を見、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った。
 八日の後、白い衣を着た主が再び弟子たちの前に現れて、トマスにむかって言われた。
 「わが手、わが足を見なさい。おまえは見たから信じたのか。見ないで信じる者こそ幸いである」
 言葉が出ないトマスは、ただひと言「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 この有名なトマスの話には、二つ大事なことがある。なぜトマスは、最初にイエスさまに会えなかったか。聖書には、「トマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった」とある。仲間と一緒にいなかったから、主に会えなかった。これはとても大事だ。ひとり孤立してミサだけに来ればいい、家でお祈りだけしていればいいという信仰のあり方は危険だということだ。私たちもキリストを信じる弟子として、仲間と共に祈り、共に教会活動をし、信仰の歓びを仲間と分かち合い、共に成長する信仰、その努力が必要なのである。

 二つ目の大事な点。トマスは”ディディモ”のトマスと呼ばれていた。ディディモとは地名でなく、双子、双生児の意味だ。そもそも双子は、おかあさんのおなかの中で、質の違う二つのものが同居している。つまりトマスの性格も、疑い深さと同時に一徹さがあった。疑うことの大切さは、私たちも日常生活で体験している。しかしトマスは疑ったけれども信じたとたん、どこまでも脇目もふらず進んで行く、すばらしい面が同居していた。「あなたは見たから信じたのか。見ないで信じるものこそ幸いである」と言われた時に、「わが主、わが神よ」。ギャフンの体験をして、彼はガラリと変わる。復活したキリストに心とらえられ、2千年前の当時、地の果てのインドまで、多くの危険に身をさらしながら、復活したキリストを述べ伝えに行ったのである。疑い深さと同時に信仰深さ。トマスはこの二つの分裂した自分を抱えて、生きていた人物ということができる。
 私たちもみんな、それぞれディディモではないだろうか。信仰深さと同時に、ないがしろに信仰している、そういう面も時々あるのではないだろうか。私たちはみんな、矛盾の存在だ。つじつまのあわないものを、自分自身に持っている者同士だ。トマスのように、復活したキリストと出会い、その復活のキリストの力で、お互いに心の中にある矛盾を癒して戴きながら、信仰の仲間と常に共にいること、また共に主を讃えることを大切にしながら、日々歩んで行きたい。