トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2014年3月号

司祭のお話 てくむ 2014年4月号

どのような境遇におかれても

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 3月というと、今から70年前の、非常に怖かった体験を思い出す。それは、3月10日、アメリカ軍のB29爆撃機による東京大空襲の日のことである。当時私は東京に住んでいて、小学校に入る直前だった。
 その夜、私の家から、下町の方が明るく燃え上がっているのが見えた。大火災だった。B29にる焼夷弾と爆弾が落とされたのだ。これにより、東京下町は一夜にして20万人が死んだという。今でも、ここ千葉の上空を、羽田空港に降りていく飛行機を見ると、爆弾を落とすんじゃないかと時々恐怖感に襲われる。それほど強烈な思い出だ。

 その年の8月に終戦を迎えたが、当時の国民は、貧しい生活を強いられ、人々の心は荒れすさみ、泥棒、強盗、追いはぎが横行した。みんな生きるために必死だった。ところが、そのような中にあって、その状況に飲み込まれない人たちがいた。一部のキリスト教信者の人たちだ。
 使徒パウロは言う。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには全てが可能です。」(フィリピ4・11ー13)

 すばらしい言葉だ。神さまを信じていることのすばらしい点は、いろいろある。信仰を持っていると、日常、何事にもよろこびを持って生きられる。多少のことがあっても、動揺しないで心が平安でいられるし、物事に感謝する心が持てる。
 更にもう一つの点は、神を信じることによって、<世の中の物事の本質がよく見えるようになる>ということではないか。例えば、富も貧しさも生きている時だけのことであって、言わば一過性の事柄だ。永遠に続きはしない。すると富や貧しさというものに飲み込まれてしまう生き方の愚かさを、神を信じている者は、前もって見通すことができるのである。
 さて、パウロの言う「いついかなる場合にも対処する秘訣」とは一体なんだろう。それはまさに「主のご変容」の出来事がわれわれに伝えることである。(マタイ17章)

 ある日、主イエスは3人の弟子を連れて高い山に登られた。するとそのお姿が、突然真っ白に輝きだした。(今司祭の着ている白衣は、この復活の世界の先取りとして、ミサの時にまとっている)。そして有名な昔の預言者のモーセとエリヤが現れて、主イエスと何か語り合う。12人の弟子のリーダー、ペトロは目の前で白く輝く主イエスと2人の光景に大変感動してしまう。彼はしばしばイエスの前で失敗をしでかす人物だが、ここでもまた失敗をしてしまう。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 単なる人間のモーセとエリヤと違って、主イエスは別格の存在である。神であり、メシアだ。だから雲の中から神の声が聞こえてくる。 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」(マタイ17・5)。

 これは、主イエスはどこまでも特別な方であり、父なる神さまの特別愛する子であること。また、父なる神は、イエスにメシア、救い主としての使命を与えたから、弟子たちはどんなことがあっても、主イエスに聞き従わなければならない。パウロの「秘訣」とは、まさにこのことなのである。祈りにおいて、「イエスに聞き従わなければならない」のだ。

 70年前の悲惨な大空襲と、敗戦後の、死ぬか生きるかの貧しさの極限を、日本人は体験してきた。当時、人心は乱れ、強盗や殺人が都会で蔓延していた中で、キリストを信じる人々の中には明らかに、そういうことに断じて無縁の人々がいた。祈りながら地道に、正直に誠実に生きる人たち。キリスト信者とは、どのような境遇にあっても、パウロの言うように、生きる秘訣を心得ているものである。それは、キリストを通して、父なる神の声を祈りのうちに聞くということ。この根本的な信仰の姿勢こそが<秘訣>なのだ。

 キリスト信者とは、どのような境遇に置かれても、それに飲み込まれず、その人らしさを失わないことだ。信仰のうちにものごとの本質を冷静に見、常にイエスに聞き、イエスのみ言葉を日々の生きる糧としたいものである。