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てくむ 2013年12月号

司祭のお話 てくむ 2013年12月号

インマヌエル!神は我々と共におられる

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 主のご降誕祭おめでとうございます。

クリスマスというと年末で、この一年一体なにがあったかをいろいろ思い起こす時期でもある。日本で、世界で、まさかまさかの沢山のことがあった。思うに、この「まさか」の連続が、私たちの人生の日々の歩みではないだろうか。この一年、うれしい事、楽しい事もあっただろう。しかしそれ以上に、心配事の苦しみ、まさかの出来事の悲しみを味わった人も多かったことであろう。
 ところで、人間の一番大きい苦しみは一体何だろうか。それは貧乏でも、病気でもない。孤独である。
 孤独、それは自分が誰からも必要とされないことだ。孤独、ひとりぼっちとは、人間にとり、堪え難い苦しみなのである。また、人間が罪を犯すのも、なんらかの意味で孤独から逃れたいためではないだろうか。
 人は皆、寂しい孤独な存在だ。どんなに愛し合う夫婦でも、どこかで理解し得ない部分があるものだ。だからこそおよそ人は誰でも、心おきなく話せる人と出会いたい。かけがえのないたったひとりの私として人から扱ってもらいたい。そう心から願っているのだ。

 主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、ひと言で言うと「インマヌエル」という表現で言い当てる事ができる。これは、2千年前のキリスト誕生の、更にその5百年も前、ユダヤの社会でこう予言されていた。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7)
 おとめとは、マリアのこと。男の子とは、イエス・キリスト。そしてインマヌエルとは「神は、われわれと共におられる」という意味である。
 もともと神でおられた主イエスは、私たち人類を救うために自らへり下り、ひとりの人としてこの世に誕生された。その救い主の言葉により、神は私たちと共に生きて下さる方だということがわかった。クリスマスは、この事実を大きな歓びとして、我々人類に告げるものだ。
 その結果、日頃私たちはいろんな苦しみや悲しみに出会いながらも、神は私たちと共にいて下さることを信じて、心のやすらぎと平安を心に抱くことができる。
 あの方がいつも共にいて下さる、この平安。しかも神の与えて下さるこの平安は、うつろいやすい、底の浅い、この世のものの与える平安とはわけが違う。
 たまたま人から沢山の株券を贈与されたとしたら、その人は歓ぶだろう。でも今度は別の不安が頭をよぎる。いつ暴落するかわからない。つまりこの世のものが与える平安は、常に不安と心配が心にうずまく偽りの平安なのである。
   神と共にいることによる平安は、この世のものが与える平安とはことが違う。それはコンコンと湧き出る泉のように、尽きずゆるがず、世の中の動静に左右されない。永遠に確かなものである。
 いくら健康で、豊かでほしい物を手に入れても、心に真の平安がなければ、それは空しい人生である。反対に、何もなく、病気がちで、年老いて、なんの役にもたたない身になっても、インマヌエル、神さまが共にいて下さることを信じれば、その人は歓びと感謝、希望にあふれた日々を過ごすことができるだろう。

 私は来年3月で司祭になって41年になる。カトリックの神父は家庭を持たないので、40年間ずっと、ひとりぼっちのクリスマス、ひとりぼっちの元旦を迎えて来た。
 お雑煮とかおせちとかは面倒くさいので、40年間元旦からラーメンだ。一番簡単だ。元旦の朝を、40年間ひとりで食事しても、一度も寂しいと思ったことはない。一度も人が恋しいと思ったことがない。
 なぜなら、それはたったひと言。「インマヌエル」だからだ。「神さまが共にいて下さっている。心の中に住んで下さっている」。そう心から信じているから、心が満たされ、おかげさまでいままで司祭としてやってくることが出来た。つくづく「神に感謝」である。
 神さまと共に生きるということは、人として本当に生きるということだ。
 どうかクリスマスのもたらす歓びと平安が、来る年もみなさまの上に豊かにありますように。