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てくむ 2013年10月号

司祭のお話 てくむ 2013年10月号

からし種ひと粒ほどの信仰

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 思い出すのは、40年前。私が司祭になって最初に派遣されたのは、東京中野区の徳田教会だった。ここは大正の始め、東京の郊外で空気がよいとされ、国によって結核病院が建てられた。当時はまだよい薬がなく、患者はおいしい物を食べて、寝て静養するだけが唯一の療法だった。ところが、あとからあとから来る結核患者を収容するために、治りそうにない患者はどんどん追い出された。結核患者は伝染病だから家に帰ることもならず、病院近くの路上にたむろした。
 たまたま信者の患者を見舞いに来たパリミッション会のフロジャック神父さまが、彼らを見て憐れに思って、近くの民家を借り上げる。そして路上の患者たちを収容して面倒を見た。その神父さまの姿に感動して、協力を申し出た若い女性たちがいまのベタニア修道女会の始まりだ。そのベタニア修道女会の敷地の一部に徳田教会が建てられ、そこに私は40年前派遣されたのである。

 私が司祭になって最初にこの教会に派遣されたことは、ある意味で摂理的だったと、いまとても感謝している。と言うのは、当時は近くにも結核患者が収容された民間の病院がいくつかあって、私にはそういう人たちに一日おきにご聖体を朝持っていく、大切な仕事があった。すると、昨日元気に話していた患者さんが今日もう死んでるとか、そういう例がたくさんあった。つまり人生の儚(はかな)さ、それを身をもって体験したのである。いつもそれを原点として、私は物事を考えるようになった気がする。
 たくさんの患者を訪問して、特に印象に残った方がいる。50幾つの女性で、関口さんというお名前だった。ひょろひょろにやせて、体重わずか39キロ。関口さんが国立病院に入ったのは、昭和19年、18歳の時だ。入院してすぐ医師から宣告された。
 「あなたは一生この病院から出られませんよ」
 ショックだ。まるで病気するために生まれて来たような人生ではないか。それからは一番たやすく自殺できる方法はなにか。そればかり考えていたそうだ。
 ところがある時、隣りの部屋に、なにか雰囲気の違うひとりの人がいることに気づいた。落ち着いていて、謙虚で誠実な感じの人だ。聞くとカトリックの信者だという。そこで自分もカトリックの勉強を始める。次第に関口さんは信仰に目覚め、やがて洗礼を受け、ご聖体を一日おきに戴くことになった。
 彼女は、なにを持っていただろう? 健康、ない。両親、いない。兄妹、ひとりっ子。財産は、ベッドの下のみかん箱たった一つ。私たちが幸福の条件と考えるものはすべて、奪われている。
 でも、彼女を訪れるたびに私がうれしいのは、このような状況でありながら、たったひと言、彼女が言う言葉だ。
 「わたしはこんなですけれど、世界一しあわせです」
 なぜ? 神さまを信じているからだ。信仰が彼女にとっては、なによりも宝。それは、表情でわかる。幸せそのものの表情で、本当に平安そのものの笑顔をなさっていた。
 病院から帰る道すがら、若い神父である私は反省した。日常生活でとかく、私も不満を言う男だったので、「あ、関口さんほどのつらい思いをした上でなにか言ってるのか」、という反省だ。

 ある時、弟子のひとりがイエスさまに言う。「わたしたちの信仰を増してください」。するとイエスさまは仰った。
 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17・6)

 2千年前のユダヤの国には、たくさんの植物が生えていた。一番小さな植物の代表が、からし種だ。一方最も大きい植物、それは桑の木だ。一番小さいからし種のような信仰があれば、大きい桑の木に向かって、「抜け出して海に根を下ろせ」と言ってもそのようになるとは、どういうことだろう。
 すなわち、本当の信仰があれば、自分でも信じられないほどの大きなことができる、ということである。
 それはちょうど関口さんが、かつて医師から「一生病院から出られませんよ」と聞いて、他の人と同様死ぬ事ばかり考えた。これが大きな桑の木そのものだ。それがひょんなきっかけで、お恵みにより、やがて彼女はイエスさまを信じるようになった。そして彼女は心の底から新たに変えられた。死ではなくて、感謝の日々をそれから送るようになった。どんなに小さな信仰でも、からし種一粒ほどの信仰しかなくても、思いがけないほど大きなしあわせをもたらす。このみ言葉を、今日も私たちのみ言葉とし、イエスさまに一層信頼して日々歩んで行こう。