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てくむ 2013年9月号

司祭のお話 てくむ 2013年10月号

私たちは迷った一匹の羊

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 中国の2500年前の「人間万事塞翁が馬」は、私の好きな話である。
 あるおじいさんが朝からお酒を飲んで、悲しんでいた。自分の馬が、隣りの国に逃げてしまったからだ。馬は大変な財産で、いまの感覚として3億円。それを一夜にして失って、悲しみにくれていた。すると隣りのお婆さんが出て来て、事情を聞いて言った。「おじいさん、人生なにが幸せかわからない。この不幸は、逆に幸福の源になるかも知れないよ」と励ました。
 案の定、翌日、馬が隣りの国から帰ってきた。しかも恋人の馬を連れて来た。一夜にして、二倍の財産だ。嬉しさに、おじいさんは、また朝からお酒を飲んで喜んだ。
 するとおばあさんが出て来て、忠告した。「おじいさん、なにが不幸の原因かわからないよ。幸福と思えることが、実は不幸の原因かも知れませんよ」。
 翌日、その馬に息子が乗って落馬した。そして一生半身不随になった。悲しみにくれてお酒を飲んでいると、またおばあさんが出て来て忠告する。「おじいさん、そんなに悲しむもんじゃない。人生なにがしあわせかわからない。ひょっとするとこれは、幸福の原因かも知れませんよ」。
 それから一週間後、隣りの国と戦争が始まった。若い者はみんな戦争に行って、全員死んでしまった。ところが、息子は半身不随だから兵隊に行かないで済んだので、命が助かった。
 なにが人生幸せか、わからない。だからあんまり成功しても、有頂天に、また傲慢になるな。あんまり不幸なことに出会っても、落ち込むな。却って、しあわせの原因かも知れない。これが、「人間万事塞翁が馬」の格言である。

 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15・4)
 羊飼いは迷子になった1匹を探し求める。そして見つけて、よろこんで、その羊をかついで家に帰る。友人や近所の人々を集めて、「迷子になった羊が見つかったので、一緒によろこんでくれ」と言う。
 これはなにを言っているのだろう。それは、神さまは一人の罪人(つみびと)が、心から悔い改めて神さまに立ち返ることを心から望んでいるのである。
 羊飼い、それは我々の救い主イエス・キリスト。羊、それはもちろん、我々一人一人のことだ。それほど天では、一人一人が改心して、神さまに立ち返ることを期待しているのである。

 ところで、99匹と1匹の迷った羊の話を「ちょっとおかしいんじゃないか?」と、思わないだろうか? 私だったら99匹を野原に置いて、1匹を探し求めない。危険だからだ。いつ狼や泥棒がやって来て、残された99匹の羊を襲うかわからない。まず99匹の羊を囲いに連れて行って、安全を確保してから、迷った1匹を探す。それが、私たちの理性が要求する考えのはずだ。その方が合理的である。
 ここでは99匹を野原に置いたまんまだ。なぜだろう。それは、およそ愛というものは、人間の考える合理性を越えるものだからである。本当の愛、それは理屈が入らない。理屈抜きなのである。
 羊飼いにとって、99匹 対 失った1匹 ではない。迷い出た羊に対する羊飼いの愛は、百分の一ではない。一頭を100%愛してるのである。他の一頭をも100%愛してる。人間は、すぐこういう場合、計算を始める。そして、すぐ数で損得を考える。合理で結論を導きだす。
 しかし聖書に描かれている、この羊飼いの愛は、その1匹、1匹しか見ていない。羊飼いにとって、1匹の羊がすべてだ。愛しているからだ。私たちの救い主イエス・キリストは、そのような愛の持ち主なのである。

 「人間万事塞翁が馬」。なにがしあわせか? なにが不幸か?人間は簡単にわからない。あの迷った羊は、迷子になったおかげで気づいた事がある。迷ったおかげで、自分を探し求める羊飼いの真剣さが初めてわかった。身をもって感じた。そして、見つかってよろこばれるだけで、激しく全く叱らない。羊飼いのやさしさに初めて気づいた。
 更に、見つかって肩にかつがれ、初めてわかった事は、羊飼いの肩の温かさだ。私たち人間はみんな、迷子である。人祖が罪を犯したために、神さまの愛から離れてしまった。罪のおかげではじめて逆に神の愛がわかった。これが、私たちの信仰だ。
 迷子というムダをしたおかげで、それを上回るものに気づけたことが多い。私たちは日々の生活の営みの中で、いろんな不測の事態に出会う。思いがけない病に倒れることもある。どうか、その折々、人生の宝を見つける事ができますように。ムダなことは人生には何ひとつない。そのことを心にいれて、神さまに委ねて進んで行きたい。