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てくむ 2013年7月号

司祭のお話 てくむ 2013年7月号

棺から出てきた青年

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 先日、自動車教習所に行った。5年ぶりの免許更新のためだ。私も”後期高齢者”になったので、前と違って今回は3時間半にも渡る厳しい検査が待っていた。最初は記憶力で、わら半紙一枚ぐらいに動物や植物や家庭用品などの絵が15ぐらい書いてあるのをポツンと見せられて「覚えて下さい」。そしてまたパッと閉じて、「なんだったか、言って下さい」。結局、三個しかできなかった。その他、暗室に入れられて動体視力検査や、他の受講者と一緒に実際に自動車に乗って、何周もコースをまわった。とっさの判断力、認識力を検査するためである。終わると成績がすぐ出る。前回は「劣っている、劣っている、やや劣っている」ばかりだった。ところがビックリ。今回は「優れている、優れている、年齢のわりにやや優れている」。記憶が3個しかできないのに、なぜ優れてるんだろうと思った。
 でも、初めて人から「優れている」と言われたので、うれしかった。ルンルンだ。ところが、その日の夕方のことである。テレビに映っていたのは、東日本大震災ですべてを奪われた50歳ぐらいの男の人だ。あの津波で一瞬のうちに妻を失い、3人の子どもを失い、両親も、家もみんな流された。一瞬にして、たちどころに人生の悲しみの奈落の底に落とされた。そういう人の悲しみに比べたら、たかが自動車学校でなんと言われようと、実にちっぽけなことだ。

 「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた」(ルカ7・14)

 まさに人生の苦しみと残酷さを味わった母親の出来事である。この母親は未亡人で、おそらく夫は戦争で殺されたのだろう。すると唯一生きている希望の光は、一人息子のはずだ。その若い息子が死んでしまい、棺に入れられ墓に運ばれて行く。その悲しみのあまり、母親は悲痛の声をあげる。そこにイエスさまが通り、棺にすがる母親にやおら、「もう、泣かなくてもいい」と声をかける。
 これは、人に物事を頼んでいる言葉ではない。権威者の言葉、命令形だ。死に打ち克ち得る者の自信がみなぎった言葉だ。
 自らの復活によって、人間の絶望、人間の苦しみに打ち克った主イエスは、私たち一人一人を永遠の命へと移す力がある。復活させる力を持っている。その現れとして、ひとりのやもめの息子を生き返らせたのである。
 もう一つ、「憐れに思う」。これは神さまにしか使われない特別な言葉だ。「憐れに思う」の原語の意味は、「はらわた痛む」。相手の悲しみで、自分の存在の深みまでそれに捉えられてしまう。ある学者は言った。
 「私たちの神は、そのすべてが耳だ。そのすべてが目だ」
 私たちの神さまは、鈍感な神ではない。真に鋭い感覚そのもの、相手の痛みそのものになってしまう神だ。相手の痛みそのものになってしまう神、それはこのイエスのみ業(わざ)が示している。

 ところで、この死んで棺に横たわっている若者は一体誰か? 実は、私自身である。かつて、くだらない自分へのこだわりから、あるいはいろんな欲望にさいなまれて、さらに人の目がやたらに気にかかり、がんじがらめになり、身動きできなくなった。そういう状態にあった私自身を思い起こした。その時、聖書に出会い、聖書を通して、お恵みによって主イエスの愛に出会うことができた。その時、私は聞いたのだ。
 「若者よ、起きなさい」
 生きていても実質的に死んだも同然であった私にあちらさんが声をかけて下さった。そしてイエスによって起き上がると、いつの間にか自分自身が開放され、縛り付けていた縄目が自然とうちほどけ、自由にされ、本来の人間としての命に与りはじめた。そう、私はよろこびと平安、落ち着きを感じはじめた。あの方は、まったく私たちの思いもかけない方法で、思いもかけない難題を一挙に解決して下さる方。それが、イエス・キリスト。そのことを本日の福音は私たちに示している。どうか、このキリストの真の平和がみなさんの上にも豊かにありますように。