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てくむ 2013年6月号

司祭のお話 てくむ 2013年6月号

愛されたからこそ愛する

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 先日早朝、ここの教会から一台のマイクロバスが出発した。私たちの教会の十八人の人を乗せて、福島へ行くためである。東日本の被災者たちの仮設住宅を訪ねて、いろんな援助をするボランティアだ。
 私は行かないので出発の時、前の方でマイクを握りみなさんにあいさつをした。
 「どうぞご無事で、よき働きをしてきて下さい。行ってらっしゃい!」
 その瞬間、なにかふつうのバス旅行とは違う雰囲気を感じた。まず、福島という遠いところに行く。小学生の遠足だったらはしゃぎまわるはずだ。でもそういう雰囲気ではなく、しかしなにかみなさん、落ち着いた満足感、そのようなものが満ちた笑顔を感じた。出発前に精神的な満足感。これはどういうことだろう。そう、困ってる人を助けに行くのが目的だからだ。  およそ人間は、与える立場になった時初めて心が満たされるものだ。もらう立場にいる限り永遠に不平不満が絶えない。自分たちは必要とされている。だから出発の時の笑顔が清々しかったのである。
 そしてちょっと違うなと思った二つ目のことは、メンバーの中に特別一人の人がいた。その方はかつてホームレスであったけれども、信者たちのボランティアの働きでやがて自立し、ホームレスから抜け出たのである。そして今度は自分の方が、困ってる人を助けに行こう。そういう立場になった人がひとり加わったのである。かつて人から与えられて生きていた人が、今度は与える立場に立って、行った。イエスさまの説く福音の構図と、まさに同じである。
 若い頃、ある意味で私もホームレスだった。その場合のホームとは、安心できる場所、あるいは心の居場所か。それが見いだせなくて、とても寂しく、悩んだことがある。救いを求めて目的もなく漂っている時、聖書に出会った。初めは義理で読んでいくうち、ポッ、ポッと、明るい陽射しが自分の心に灯されてくるような気がした。わたしは愛されてるんだ。あの方が十字架の上で、わたしたちの罪を贖(あがな)うため命を捧げて下さった。自分はあの方に命をかけて愛されているんだ。そのことに気づいた。罪を種々日頃犯し、なんの取り柄もない人間なのに、それほど自分は愛されている。うれしい。神の愛が先行しているのである。だとすれば今度は人を愛さなければ。よろこばしき福音を聞いたのだから、愛に駆り立てられ、今度は人にもそれを伝えなければいけない。そういう者に変わった。かくて若い頃、司祭の道を選び取ったのである。無償で赦されたんだから、無償で自分もひとに与えたい。愛されたから、愛したい。これが福音の基本形である。
 イエスさまは、最後の晩餐の時に仰った。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)
 イエスさまは口先だけではない。実際にそれに生きた。現に最後の晩餐の直前に十二人のお弟子さんを集めて、ご自分が奴隷の姿をとって、弟子たちの足をひざまずいて洗った。それほど、へりくだり給うた。それほどのことをなさったのは、それほど愛したので、あなたがたもおなじようにしなさい、というメッセージでもあった。
 いまも、我々の身近なところで、同じような図式のことが起きた。ホームレスであった方が自立し、今度は自分が人を支援する。愛されたから、愛に駆り立てられる。その姿を見て、「ああ、ここでも福音が実現している」。そう、心から思った。
 私たちは主日毎にミサに来て、みんなと共に祈り、共に神さまを賛美する歌を捧げている。これも、神さまへの恩返し、神さまへの愛の表現である。愛されたから、愛する。主日にミサに来ること、それは決して、単なる義務ではない。うれしいから来るのである。愛されたからこそ、神に愛を返したい。その深い神の愛につつまれて、お互いにこれからも歩んで行きたい。