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てくむ 2013年4月号

司祭のお話 てくむ 2013年4月号

二人の放蕩息子

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 「放蕩息子」の福音(ルカ15・11 32)を読んでいてふと、昔のある婦人のことを思い出した。その方は週一回、私の聖書の勉強会に必ず参加していた。いつもみんなより早く来て、いろいろ準備をする、熱心な求道者であった。ところがある日から急に来なくなった。なにかあったんだろうと思っていたら、二年後ひょっこり教会に来た。そして私に「挨拶をしたい」と言うので応接間にお通しした。
 「いま私はこういう者です」と、胸からやおら身分証明書を取り出した。「この者は真言宗の女僧侶であることを証明する」。なんと、仏教の真言宗に行ったのだ。私はビックリして、また興味もわいて、「キリスト教と仏教と、どう違うんでしょう?」と聞いてみた。すると、「さすが両者とも、できてから千年、二千年と経っている宗教なので、それだけに人間の心を打つ、普遍的な感動的な教えがありますね。似ているお話もあります」。

 ある人に二人の息子がいた。弟の方が父親に「お父さん、私の戴くことになっている財産の分け前を下さい」と言う。父親に財産を分けてもらった息子は、それを金に換えて遠い国に行って放蕩の限りを尽くす。財産を使い果たして飢え死にしそうになる。そこで罪を犯したことに気づいて、詫びに父親のところに戻って行った。すると、
 「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」
 愚かと思えるほどの深い父親の愛。好き勝手し放題で帰ってきた息子に対して、なんの咎(とが)めもせず、赦して、喜んで、いちばん良い服を着せてやり、うんぬん。大祝宴すら開いてやる。常識を超えた父親の喜びよう、そして愛である。

 女僧侶になった方によると「仏教にも同じ話がありますよ」。法華経の信解品(しんげほん)の中の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」の話だと言う。
 「ある金持ちに息子がいた。息子は家出して遠いところに行ってしまう。家に帰って来ないわが子を心配して、父親は探しまわる。疲れ果てて、捜査拠点にするためにある町に豪華な住まいを構える。愚かな息子はすべての金を使い果たして乞食になり、憐れな姿で食べ物を求めて、たまたまお父さんの家にやって来る。ところが、あまりに豪華な家なので王様が住んでるんだろうと勘違いして逃げてしまう。ところが父親は、『あ、私の息子だ!』と気づいて、僕(しもべ)を送って、わが子を自分の家に連れて来させる。そして父と子の関係を明かさずに、便所の掃除など、いろいろな雑事をさせる。数十年経ち、その間父親は息子に近づき、その父親の感化によって次第に息子は立派な人間に変わっていく。やがて息子が一人の人間として仕事をまかせられるほどになったのを見届けて、父親はその国の大臣や有力者を集めて披露パーティを催す。『みなさん、この子は私の真の子どもです。私はこの子の真の産み親です。この子は私を捨てて家を出ること何十年。その後見いだされて、ここで働くようになり数十年過ぎました。今日からこの立派になった息子に、私は一切の財産を委ねます』」。そう宣言する。

 この仏教の話と聖書の放蕩息子の話の共通点は、どこだろう? お金を持って遠いところに行って、好き放題使い、非常に困ることになった息子。もう一つは、父親の存在だ。父親は愛する息子の帰りを待ち望む。帰ってくると大いなる愛で、両方共宴会を開いている。それによって、父なる天の神様の大いなる愛、仏の慈悲を表していると思う。
 ところが、一つだけ明らかな違いがある。それは父親の、帰ってきた息子に対する受け入れ方だ。法華経では、帰ってきた息子を見て、父親はふさわしい仕事を与える。そして仕事を通して自己修練させて、よりよい人間になっていくのを待っている。そして息子が一生懸命働いて立派になり、やっと高い人間形成が実現した時に初めて、父親は多くの人を集めて喜びの宴会を催している。

 聖書の場合どうだろう? 帰って来た息子を見いだすやいなや、父親の方が先に走り寄っている。首を抱き、接吻し、そしてダメなまんま、まだ反省も詫びの言葉も発してないのに、宴会を開いている。つまり、息子がまだふさわしくないのに、もてなした。
 この二つの話から、天の御父の真の愛とは一体どういうものかを考えた。人間として、立派な人格を持っているとか、人間形成ができているかとか。天の神様の本当の愛は、そのようなものを足がかりにしない。天の神様の真の愛は、無条件なのである。
 キリストのみ教えは、我々が救われるのはそれに値する人間として立派になったからではない。自分が人間として完成したからでも、愛されるに値する人間になったからでもない。愛されるに値しないものを、命までかけて愛して下さる。それがキリストの愛、すなわち天の御父の愛なのである。
 このキリストの救いに、我々自身がよろこびをもって、お互いに日々与りながら、歩んでいきたい。