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てくむ 2013年2月号

司祭のお話 てくむ 2013年2月号

母の作ってくれた布団

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 この年も神さまのお恵みに感謝しながら、その恵みのうちにお互いに生きていきたい。  『聖家族の日』は、イエスさまと父ヨゼフと母マリアの聖なる家族をお祝いする日である。イエスさまは、当時のユダヤの社会で一年で最大の祭り<過越祭>に、ヨゼフとマリアのご両親と共に、慣習に従ってエルサレムへ行った。12歳の時、当時の成人式の歳だった。  過越祭も終わり、人々は故郷に帰った。ところがイエスさまは両親とはぐれてしまい、両親は一生懸命捜す。三日目になって、やっと我が子を見つける。その場所たるや、エルサレムの神殿の境内の中、しかも我が子が学者たちと問答をしている。その姿を見つけて、マリアは驚いて言う。
 「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」
 するととんでもない答えが、イエスから返った。
 「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいることは当たり前だということを、知らなかったのですか」
母マリアにとっては意表をつく、受け答えだ。
「どうして私を捜したのですか?」。この言葉の意味、それは、イエスはご自分がこの世に来たのは、一家団欒の温かな楽しさを味わうためではない。ご自分が、神さまから託された特別の使命、救い主という使命を帯びて、この世に生まれたこと。そして託されたその使命を、はや自覚を持って、対処し始めてますよ、と暗に示されたのである。母マリアに、イエスは我が子でありながら、もはや我が子ではない。そういう自覚を持つ事を促した言葉でもある。マリアにとり、それは寂しいことだ。しかしその覚悟に耐える、自覚をしなければならない時が、はや始まったことを示されたのである。
 ここまで述べると、個人的な、昔のある思い出を語らざるを得ない。私は24歳の時、司祭になるために神学校に入った。母(小林カツ。帰天79歳)は猛反対だった。神学校は寄宿生活で、24時間、ほぼ修道院とおなじ共同生活をした。月に一度、昼間外出許可が出るので、私は必ず母のいる家に帰るようにしていた。
 帰るごとに、時々母は私の決心を翻そうと、お見合い写真を、家で持って待っている。私に見せて、「どお? この人、いいでしょ」と、盛んに私を誘(いざな)うのだった。  その“迫害”にも耐え、10年後いよいよ念願叶い司祭に叙階されることになった。当日は東京カテドラルに千人近くの方々が駆けつけ、参加して下さり、私は自分の兄弟にも呼びかけた。「私の結婚式と同じだと思って参列してほしい」。2時間半に及ぶ長い厳粛な叙階式が終わり、外に出た。そして沢山の方たちから多くのお祝いの言葉を戴き、その日は自分の家に帰ってもいいことになっていた。兄のクルマに母と私は乗った。クルマが走り始めた瞬間だった。叙階された今日の一連の我が子を見ていて、深く感じるものがあったのだろう。母は私に言った。
 「神父さま、母さんも信者になるよ!」
 感動した。10年前、神学校入学の時、あれほど反対したのに。私の決意を翻そうと、いろいろと策をあれほど弄されたのに。あの時、母の気持ちに従わず、私は己の考えを貫き通した。だからこそ、母はいま、こう言うようになったのである。そう思うと嬉しさと共に、「神に感謝!」という言葉が、思わず口にのぼった。
 晴れて司祭に叙階され、最初の赴任先が東京中野の徳田教会。そこから、母を見舞いによく都内の家を訪れた。ある日、しばらく滞在したあと、いよいよ教会に帰ろうとすると、上の方を指しながら母は言った。
 「泊まっていっても、いいんだよ」
 そう言って、私に押し入れを開けさせた。すると真新しい布団がひと組、たたんであった。つまり、私の決心が変わらず、司祭になったことを見届けた母は、時間をかけて、ゆっくりと私のために布団を作ってくれていたのである。それから母は、訪れる毎に泊まっていくよう促しながら、布団を自分の手で自ら上げ下ろしし、決して他の兄弟にその布団をさわらせようとはしなかった。
 なぜだろう? それは、この我が子は、我が子でありながらもはや、我が子ではない。神さまに捧げたから。きっとそういう思いがあったのだろう。つまり、公私の区別をつけたかったのだろう。
 「どうして私を捜したのですか。私が父の家に、いるのがあたりまえだと知らなかったのですか」というイエスさまの出来事と、母が布団を自ら上げ下ろしして決して他の兄弟たちにさわらせなかったことは、なにか共通点があるような気がしてならない。それは、親子すら、公私の区別をハッキリとしなければならない。けじめを心得ていた、という点にあると思える。