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てくむ 2012年9月号

司祭のお話 てくむ 2012年9月号

トリテヨメ(取りて読め)

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 連日ロンドン・オリンピックのニュースが伝えられている。永年の練習の結果の優勝は、どこの国の人であろうと、見ていてとても感動的だ。オリンピックの優勝者は、誰もが世界一になったよろこびにあふれる。ところが昔、オリンピックの水泳で優勝した人がこう言っていた。「勝った時はうれしかった。しかし時が経つと、なにか空しい」。
 つまり、優勝しても心が満たされない。魂の飢え渇きを感ずるようになった。そして友人に勧められて聖書を読むようになり、神の存在が気になりはじめ、やがて彼は信仰の世界に目覚めていった。
 旧約の預言者イザヤは、私たちに語っている。

 「なぜ、霊的な糧にならないもののために金を払い、霊的飢えを満たさないものに心を労するのか」(イザヤ書55・2)

 人間は、肉体的な飢え渇きを感じると同時に、精神的な飢え渇きが誰にでもある。またそれこそが、人間の人間たるゆえんと言ってもよいだろう。もっと、愛されたい。もっと、有名になりたい。しかし私たちはそれらにその時は満たされても、あとでなにか空しさを、心の渇きを感じるものである。

 いまから約1700年前、後世のカトリック教会に大きな影響を与えた有名な聖人にアウグスチヌスがいる。彼はアフリカの小さな町で生まれ、若い頃は神を信じず、自堕落な生活を送っていた。当時流行のマニ教にも手を染め、熱心なキリスト教徒の母モニカは、わが子の回心を願って、日夜神さまにお祈りしていた。アウグスチヌスは旅先のミラノで、教会から聞こえてくるある司祭の声に惹かれた。その日は復活祭で、信者で一杯の御聖堂で耳を傾けていたアウグスチヌスは、司祭アンブロジウスの説教に感動する。そしてそれが結局きっかけでキリスト教の信仰に目覚める。
 その頃、町で掛けあう子どもたちの遊びのかけ声が聞こえてきた。「トリテヨメ、トリテヨメ」、取って読みなさい、という意味である。そこで目の前にあった本を何気なく開くと、それがまさしく聖書だった。開いたところがしかも、ローマ人への手紙13章だ。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ています。夜は更け、日は近づいた。だから闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩こうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉の心を用いてはなりません」

 この言葉に接し、彼は劇的に回心する。そしてすぐ教会に駆けつけて洗礼を申し込む。彼は洗礼を受けると、すぐ司教に任命されるという教会の歴史でも極めてめずらしい出来事を体験する。
 この回心の前後の自分の心の状態をメモしてまとめられた本が、有名な「告白」だ(註:岩波文庫「告白」あり)。その中で有名な言葉がある。
 「主よ、あなたは私たちの心を、あなたに向けて創られました。だから私たちの心はあなたに憩うまでは、やすらぎを得ません」
 アウグスチヌスは、神さまは、私たち人間が神を求めるように、わざと人間をそのように創ったと言う。人間の霊的な飢え渇きは、神さまが人間にわざわざ用意したものだと唱えた。神さまが、ご自分を人間が求めるように、人間の心にすきまを与えた。すきまがある以上、人間みんなさびしく、みんな不安だ。霊的な飢え渇きを、いつも満たしたいと思う。
 でも、たとえオリンピックで優勝しても、所詮この世のものではそのすきまを満たすことは決してできない。神さまに出会うまでは、そのすきまを埋めることはできない。これを「聖なる寂しさ」あるいは「根源的な飢え渇き」、「根源的な孤独」と言う。私たちは、人の愛とか名誉、お金とか健康、そういうものがあれば満たされるだろう、そう錯覚しがちだが、決してそうではない。神さまのみだ。元来神をもとめるために与えられたすきまだから、この世のものではその渇きを満たすことはできない。そして、神の無償の恵みによって心が満たされた時のみ、真の人間のしあわせ、そしてこの世のものではない真のゆるぎない平安と生きるよろこびが得られるのである。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)