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てくむ 2012年7月号

司祭のお話 てくむ 2012年7月号

リンゴ園の主人

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 去年8月、あるひとりの女性が62歳でガンで亡くなった。40年ほど前、私が司祭になって初めて行った徳田教会時代から知る信者の池田芳子さんだ。この方は昨年7月、大病院の病室で主治医からこう宣告された。
「もう、長くありません」
医師の説明を聞き終えた彼女は、全く慌てることなく「ありがとうございました」と、穏やかに医師に頭を下げた。そして家族に向き直り、「そういうわけです。これからもよろしく」、声ひとつ震わさずに言った。そして翌日は黙々と、もう死が迫っているにも関わらず、全くふだんと変わりなく、孫の夏の帽子を編み続けた。そして翌月、病室で眠ったまま穏やかに天に召された。

「もし明日、自分の死が来るとわかったら、あなたは何をしますか?」
すると聖人は答えた。
 「相変わらず、いつもと同じようにリンゴの木を植え続けます」
自分をリンゴ園の主人になぞらえて、いつも通りの平凡な日々を続ける、と。
そう、これは突然死に襲われても取り乱すことなく、慌てて取り繕うことなく、日頃から神さまと自分に恥じない生活をしていなさい、ということではないか。彼女はガンの宣告を受けたにも関わらず、孫の夏帽子を静かに編み続けた。死の宣告を受けても、取り乱すことなく、その事実を静かに受け入れた。これは全き神への信頼と、神さまと自分に恥じない生き方をしてきた、その確信の証しと言えよう。

 私たちの罪の贖いのために十字架上で亡くなられた主は、三日後に復活された。そしてしばしば弟子たちの前に現れて、40日後に天に昇られる時、主は仰った。
 「あなたがたは全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16・15-16)

 キリストの弟子である私たちは、好むと好まざるとに関わらず、福音を宣べ伝える義務がひとりひとりに課せられている。
それはなにも、口を開き、言葉を使って伝えることのみではない。「あの方の生き方が、神の存在をなによりも語っている」ということを、私たちは体験する。つまり、発する言葉ではなく、日々の些細な、その人の愛の行いこそが、神の存在をしばしば物語っているのである。

 突然のガンの宣告を受けたにも関わらず、あれほどの平常心で、己の死を受け入れる。これはまさに神への深き信頼ゆえである。復活、永遠の命への真の信仰そのものを、彼女は心の深くに刻み込んでいた。人間は人から説得されてそう簡単に変わるものではない。ひとりの人の謙虚な立ち振る舞いが、ささやかな愛の行為こそが、心から他者を動かし、行動に駆り立て、そして生き方さえ変えるのである。
 本物の信仰の印。それは落ち着きであり、静けさである。また、「いささかの己の痕跡も残すことなく」という自己没却である。どうか私たちの毎日の生活が少しでも、そのような信仰に近づいたものでありたい。

「浅い流れは音が高い。わたしの祈りよ、言葉よ、行いよ、音が高くないか。深い流れは音をたてない」