トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2012年5月号

司祭のお話 てくむ 2012年5月号

直諌(ちょっかん)の痣

主任司祭 パウロ 小林 敬三

昔、紀伊の国(和歌山県)に 徳川頼宣(よりのぶ)という殿様がいた。 50万石の広い領地を持つ殿様頼宣が若い頃のことだ。自分に気にいらないことを家来がしたので、頭にきて、刀で刺してしまった。それを聞きつけた家老・安藤帯刀(たてわき)が駆けつけた。そして帯刀は両手で、殿様頼宣の膝頭をグッと押さえつけ、こう諌(いさ)めた。
「殿、つまらないことで、ご自分で手を下すとはもってのほか。そんなことで紀伊50万石を保つことは難しい。お慎みなされ、殿、お慎みなされ......」
その時の、膝頭を押さえる安藤帯刀の力があまりに強かったので、殿様の膝頭には、黒い痣(あざ)が生涯残ったそうだ。
時が経ち、安藤帯刀が死んだ後のある日のこと、頼宣は自分の膝にまだ残る黒い痣を指差しながら、つくづく言った。
「この痣は、安藤の形見だ。この黒い痣がなかったら、いままで50万石を保ってくることはできなかったであろう」
これを、「直諌(ちょっかん)の痣」と言う。直に諌めた結果できた痣だ。つまり、組織の統率者はこの直諌の痣を大事にする謙虚さ、度量が大事なのである。そうでないと、そもそもあくまで人間は傲慢だから、ことあるごとにすぐ傲慢さが頭をもたげてくる。そして自分の言うことを聞く人のみを身のまわりに配置して、その結果自分に良いことしか聞こえてこなくなる。従って、まわりが見渡せなくなり、自分を客観視できなくなる。
だから最近もある大手製紙の創業家の社長が、カジノで会社の大金を使った事件が、新聞テレビ等で伝えられていた。つまり、側にいても、誰も何も言わなかったのだろう。その結果、暴走してしまい、そして会社に大損害を出してしまった。
私たちはとかく、人から、特に目下の者から諌めの言葉をもらうと、ついプライドが邪魔をする。気を悪くして、自分の人格を否定されたような気持ちになってしまう。そうではなく、私たちはどんな立場の人からも、諌めの言葉に対しては謙虚に受け入れる、その度量が大事なのである。

主イエスの十字架の後、弟子たちは、自分たちもいつ捕えられるか? いつ十字架につけられるか? 恐れおののきながら、家の戸に鍵をかけて祈っていた。すると、白い衣を着たあの方が部屋に入って来られた。復活された主だ。そして、
「あなたがたに平和があるように」
そう仰ってから、弟子たちと一緒に食事をなさった。みんなビックリだ。まさか!? そしてこの時、弟子たちにとってイエスは、キリストになった。それまでは単なる偉い先生に過ぎなかった方が、あの時十字架上で死んだことを見届けたにも関わらず、いま現に、生き返っていらっしゃるのだから。これはただの人ではない、神さまだ。
この時から、弟子たちは「イエスは、キリスト(救い主)なり」と言うようになった。この復活の姿に接して、「イエスは神さまだ」ということを心底弟子たちは悟ったからである。
イエスが突然消えると、入れ替わりに弟子のひとりのトマスが入ってくる。みんなが興奮気味に、たったいま起きたことをトマスに言う。「あの方が入って来たんだよ」、「一緒に食事をしたんだよ」。ところがトマスはせせら笑って言う。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、私は決して信じない」(ヨハネ20・25)
さて八日の後、トマスも含め弟子たちは鍵を戸にかけ、部屋にいた時に、あの方がまた入って来る。そして「あなたがたに平和があるように」と、前回と同様の言葉を言われてから、トマスに直接言う。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20・27)

こともあろうに、イエスさまの復活を疑ったため、復活されたキリストご自身が、トマスを直に諌められた。トマスは、このイエスの諌めの言葉をこよなく大事にした。言わば、彼の心の「直諌の痣」として、このみ言葉を原動力として、当時の地の果てインドにまで、復活したイエスを宣べ伝えに行ったのが、まさにこのディディモのトマスである。ディディモとは、双生児の意味であるという。母の胎で2つの異なった双生児が育った。
私たちも毎日、いろんな矛盾に出会い、いろんな辻褄の合わないものを抱えながら生きている。
なによりも、まわりの方々の諌めの言葉を、私たちは謙虚さをもって受け止めながら、キリストの弟子として、復活したキリストを宣べ伝えて、毎日を送っていきたい。