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てくむ 2012年4月号

司祭のお話 てくむ 2012年3月号

合同追悼法要に参加して

主任司祭 パウロ 小林 敬三

忌まわしい東日本大震災から一年が経った。あの大震災の大津波で、千葉県内でも十人以上の被害者が出ている。3月11日には千葉県宗教連盟の主催の下、銚子近くの旭市飯岡の玉崎神社で合同追悼法要が行われ、各宗教各宗派から百数十名が参加した。
カトリック神父が、他宗教のお坊さま方と共に祈るとは、50年前の第2バチカン公会議前までは、全く考えられなかったことだ。他の宗教との協調、他の宗教の霊性に学ぶ。そういう姿勢に変わった、第2バチカン公会議のおかげだ。
こうして、天理教、曹洞宗、神道、その他各宗教各宗派の方々が、独自の様式に従っての追悼法要であった。鐘や太鼓や笛を用いて追悼する祈りの時を共に持つことを体験して、当然、実によいことだとつくづく思った。私も神社の拝殿の前で、キリスト教を代表して、まず胸に十字を切り、「主の祈り」を堂々と大胆に、大きな声で祈った。
ただ二つの点で、他の宗教の方々の追悼の祈りを伺っていて、違和感をちょっと覚えた。一つは、僧侶の唱えるお経の意味が難しく、わからないこと。みなさんもきっと、仏教のお通夜やお葬式で、体験なさっているだろう。イエスさまは、御父への祈りの時、また当時のユダヤの人々にむかって福音を説く時、日常台所でお母さん方が使っているやさしい言葉、ピンとくる言葉で語ったのである。
二つ目は、大津波で親しい人が沢山死んで悲しいのは当然だし、嘆くのは当たり前だ。ただ、初めから終わりまで「悲しいかな、悲しいかな」という言葉のみが聞こえて来るような気がして、なにか暗く、希望がないな、と感じた。
その時、聖書の聖パウロのあの言葉を思い出した。

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないでください」(1テサロニケ4・13)

そう、私たちの教えには、「復活」という希望がある。復活の命こそ、私たちの信仰の中心。聖書の根本では、「死」を「永遠の別れ」と説いていない。あえて言うならば、死は一時の仮の眠りだ。私たちも寝入ったからといって、命が絶たれるわけではない。寝入っても、命は継続している。一時の仮の眠りなのだから。そしてその眠りを突き抜けたあとが、すばらしい復活の命。ずっと継続してきた命が、それからは全く違う、豊かな異次元のあり方に、すなわち明るく輝きに満ちた神の命に自分の命が呑み込まれていくのである。復活が待っているとは、そういうことだ。そして、キリストと私たちも、顔と顔を合わせて、その復活の世界で、我々はよろこびの再会、再びあいまみえるよろこびの時が来るのである。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)

本当の愛。それは、言葉だけの愛ではない。本当の愛、それは自分の犠牲を伴うもの。言わば、自己犠牲だ。自己犠牲を伴わない愛は、きれいごとに過ぎない。天の御父は、かつて人々の救いのために、その尊い御独子を十字架に掛けることを厭(いと)い給わなかった。
天の御父は、その罪ゆえ人間を罰するのではない。その罪ゆえに神は、ご自身を罰し給うた。それが十字架の意味である。大自然がたとえなんと荒れ狂おうとも、この事実こそ片時も忘れてはならない。