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てくむ 2012年3月号

司祭のお話 てくむ 2012年3月号

主イエスと「絆」

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 昨年は東日本大震災の影響で、一つの言葉が大変流行った。「絆」という言葉である。絆とは、「人と人とのつながり」という意味だ。突然の大地震と大津波で、多くの人々が命を失い、家を流され、あるいは職を失った。みな困り果てた。国は一体どこまで助けてくれるのか? 結局最後に頼りになるのは、人と人とのつながりではないか、ということで「絆」が強調されたのだろう。デパートのお歳暮でも、絆は登場した。「家族の絆」土鍋セット、東北名産の海産物を詰めて「東日本との絆」。それぞれ商品名に込められた善意は温かいと思う。
 でも、あまりに「絆」という言葉が氾濫することで、あたかも、もうすでに社会に絆は行き渡っているかのような錯覚に陥ってしまわないだろうか。そもそも人間は、人と人との絆を求めて生きている。しかし本来の絆とは、一体どういうことか? 福音から考えてみた。

 ガリラヤの湖のほとりで、ペトロはいましがた漁を終え、岸にあがって網を繕っていた。そこにたまたまイエスさまがお通りになり、ペトロに呼びかける。

 「あなたはいまから人間をとる漁師になる」 (マタイ4・19)

 ペトロはただちに舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。つまり、イエスとの絆がうまれたので、網も舟も家族の絆をも断ち切って、出家したのである。一方これは、ペトロの奥さんにしてみれば、夫はイエスという得体の知れない男にかどわかされ、勝手に家を飛び出して行った。どんなに心沈んだことだろう。
 月日が経ち、ある旅の途中でたまたまイエスさまは弟子たちとペトロの家の近くを通った。そしてペトロの姑が熱を出して寝ていると聞いた。早速姑の家に行き、寝ている姑の側に行って手を取って起こされると、熱は去った。問題は解決したわけだが、そこで話は終わらない。

 「(熱が去ると)彼女は一同をもてなした」 (マルコ1・31)

 この「もてなした」という言葉が非常に大事だ。なぜなら、「いつまでも、もてなし続けた。いつまでも仕え続けた。いつまでも奴隷としてすべてを捧げて従った」という意味だからだ。 つまり、一同をもてなすこの姑の姿は、イエスさまのみ言葉「すべての人に仕える者になりなさい」の具体化の表れなのである。
 熱を癒されたことで結ばれたイエスさまとの絆は一生主に仕え、一生主に奉仕する生き方に、ひとりの女を駆り立てたのだ。
 さらに面白い事が聖書に書かれている。

 「ペトロのように、信者である妻を連れ歩く」 (1コリント・9)

 ペトロの妻は、イエスさまとの関わりのうちに自分自身も信者になった。そして夫である弟子ペトロの福音宣教の業(わざ)の、よき助け手となった。つまり妻も、熱を癒された姑も、共に主に仕える者になったのである。これは、共に救いの道に入ったことを意味する。家族をあげて、キリストの救いにいつの間にか吸い取られて行ったのだ。
 かつて主は弟子たちに、ご自分の名のために家も財産も捨てた者は、その百倍にも返してあげよう、と言われた。
 その約束が、すでにここで果たされ始めているのである。

 世の中の絆は、もろく儚いものだ。そして表面的で、その場限りになりがちなものだ。 イエスさまこそ、真の絆の確立者。イエスさまとの絆は、神との絆だ。イエスさまとの心の絆は、直ちに、その人の心に深く染み渡り、その人の生き方を根底からゆさぶり、変えさせるもの。そしてその人を生き返らせ、単調になりがちな私たちの人生に、イエスの絆こそ、ゆるぎない、強固な地盤の上に築き上げられた真の絆だ。
 イエスさまはごくささやかな出来事を通して、人生に大きな彩りをそなえて下さる方。イエスさまは味なことをする。そのことをお互いによろこびとし、絆をいっそう強めて行きたい。