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てくむ 2011年12月号

司祭のお話 てくむ 2011年12月号

芋掘り畑にて

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 行楽の秋となり、一週間前バスを借り切って土曜学校の子どもたち40人とスタッフ10人で、香取郡にある信者の方の芋畑に<芋掘り>に行った。天気予報では当日は大雨洪水強風と、悪いことづくめで、当日朝も雨が降っていた。ところが、決断していざ出発すると、予報は見事にはずれ、雨が一滴も降らない、すばらしい幸運に恵まれた。
 現地に着いてすぐ、子どもたちは一列に並んで芋掘りを始めた。大人がつねにそばに付き添って、子どもが掘りやすいように土を支えたり、掘られた芋をトラックに運んだり。一方他のスタッフは、バーベキューの準備や、野菜を切ったり炒めたり。また別のスタッフは、広い土地の鬱蒼と茂った木から木にロープを渡して「ターザンごっこ」の準備をしたり。子どもたちに今日一日を楽しんでもらおうと、この他にも陰でいろいろな支えがあったと思う。
 スタッフが一生懸命働いているのに、一人だけみんなからポツンと離れて、腕一本動かそうとしない男がいた。なんのため芋掘りに来たのかわからない。そのくせ食事になると人並みに食事にありついていた。誰だろう? それは私、小林神父だ。
 実は今日の福音を読んでいて、そのことを思い出した。イエスさまはある時弟子たちにこう仰った。
 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23・2-4)
 これはまさに芋掘りの日の私だ。イエスさまは「信仰は知識じゃありませんよ、実行ですよ」と仰っていて、このみ言葉の意味を知っていながら、なぜなにもしなかったのか?
 実は、私なりの言い分があった。そもそも私は神父なので、教会で日々しょっちゅういろいろな電話を受ける。突然の来客があったり、突然「だれそれが亡くなった」と訃報が入ることもある。するとすぐ、葬儀ミサの準備にかかる必要がある。また三つの関係する幼稚園からは、突然の呼び出しがあることもしばしばだ。毎日、多岐に渡っていろいろのことをしなければならない。すべてのことを信者の要求通りに、望み通りに、望みの時間に、それにお応えできるかどうか。むしろ、反対の方が多い。
 同時に二つや三つの方面から、おなじような要求がある場合もある。その時はどうするか? まず、優先順位をつける。どこが一番大事か? すぐやらなければいけないか? そして順位の上のことから実行に移していく。
 エネルギー同量の法則では、人間は一生の間使うエネルギーは結局おなじだそうだ。私たち人間はそのように決まったエネルギーしか持っていないので、いろいろ実行する場合、優先順位の高い方から使わなければならない。問題解決は横並びではなく、縦並びにして一番前のものから解決していく。
 例えば、今回の芋掘りは、40人の子どもに対して10人のスタッフがいた。ことの性格上、必ずしも主任司祭の私が参加する必要はないはずだ。なぜ一緒に行ったのか? 私が一緒に行けば、ひょっとするとスタッフも子どもたちの両親も多少なりとも安心するかも知れないと思った。決して芋を掘ること自体のためではなかった。
 なぜなら、その日の夕方は、教会に帰ってから二つの大きな仕事が待っていたからだ。4時からの「洗礼準備講座」では、8人位の方が毎週土曜日の夕方来て、その方たちにお話をしなければならない。それが終わるとすぐ5時半からは「主日ミサ」で、お説教もしなければならない。この二つは、私しかできないことだ。
 もし、芋掘りにエネルギーを使い果たすと、あとの大事な二つのことができなくなってしまう。優先順位の一番最初は、御ミサだ。2番目は洗礼の準備講座だ。芋掘りはどう見ても3番目である。そこで割り切りを行わなければいけない。大切なエネルギーを最も大事な部分に使おう。「人生、割り切り」、まさにこのことではないか。
 今日の福音は本質的に正しい。信仰とは知識ではない、祈りだけでもない、実行こそ大事である--これが大原則だ。
 ところが時と場合により、また人間の構成によって、全体的に見て、なにもしないことが最善の場合もあり得る、ということである。滅多やたらに立ち動くことが、最適とは限らない。これは親子関係もおなじだ。嫁姑の問題もおなじだ。なにか問題が生じた時、「なにもしないことが最善である」という時があり得る。善意は大事だが、もっと大切なのは賢明さ。本日の福音を読み、最近の出来事からそう思った。